と極まりきったものではない。だからわたしどもの第一要件は、彼等の精神を改変するにあるので、しかもいい方に改変するのだ。わたしはその時当然文芸を推した。そこで文芸運動の提唱を計り、東京の留学生を見ると多くは法政、理化を学び、警察、工業に渡る者さえ少くないが、文芸、美術を学ぶ者ははなはだ少い。この冷やかな空気の中《うち》に、幸い幾人かの同志を捜し出し、その他必要の幾人かを駆り集め、相談の後第一歩として当然雑誌を出すことにした。表題は「新しき生命」という意味を採った。われわれは当時大抵復古の傾向を帯びていたから、これを「新生」といったわけである。
「新生」出版の期日が近づいた時、最初に隠れたのは原稿担当者、続いて逃げたのは資本であった。結果は一銭の値打ちもない三人だけが残った。創始の時がすでに時勢に背いたので、失敗の時は話にもならない、しかも三人はその後各自の運命に駆逐され、一緒になって将来の好《よ》き夢を十分に語ることさえ出来ない。これがすなわちわたしどもの生産せざる「新生」の結末であった。
わたしがかつて経験したことのない退屈を感じたのは、それから先きのことである。初めはそのわけが解らなかったが後になって思うと、凡《すべ》て一人の主張は、賛成を得れば前進を促し、反対を得れば奮闘を促す、ところが爰《ここ》に生人《せいじん》の中《うち》に叫んで生人の反響なく、賛成もなければ反対もないと極《きま》ってみれば、身を無際限の荒原に置くが如く手出しのしようがない。これこそどのような悲哀であろうか、わたしがそこに感じたのは寂寞である。
この寂寞は一日々々と長大して大毒蛇のように遂にわたしの霊魂に絡みついた。
そうして自ら取止めのない悲哀を持ちながらムカ腹を立てずにいた。経験は反省を引起し、自分をよく見なおした。すなわち自分は、腕を振って一度《ひとたび》叫べば応える者が雲の如く集る英雄ではないと知った。
さはいえわたしは自分の寂寞を駆除しなければならない。それは自分としてはあまりに苦しい。そこで種々《いろいろ》方法を考え、自分の霊魂《たましい》を麻酔し去り、我をして国民の中《うち》に沈入せしめ、我をして古代の方へ返らしめた。その後も更に淋しいことや更に悲しいことがいろいろあったが、みなわたしの想い出したくないことばかりで、出来るなら自分の脳髄と一緒に泥の中に埋没してしまいたいことばかりであった。ではあるが、わたしの麻酔法はこの時すでに功を奏して、もはや再び若き日の慷慨激越《こうがいげきえつ》がなくなった。
S会館の内に三間《みま》の部屋がある。言い伝えに拠ると、そのむかし中庭の槐樹《えんじゅ》の上に首を縊って死んだ女が一人あった。現在槐樹は高くなって攀じのぼることも出来ないが、部屋には人の移り住む者がない。長い間、わたしはこの部屋の中に住んで古碑を書き写していた。滞在中尋ねて来る人も稀れで、古碑の中にはいかなる問題にもいかなる主義にもぶつかることはない。わたしの命はたしかに暗《やみ》の中に消え去りそうだったが、これこそわたしの唯一のねがいだ。夏の夜は蚊が多かった。蒲団扇《かばうちわ》を動かして槐樹の下に坐り、茂り葉の隙間から、あの一つ一つの青空を見ていると、晩手《おくて》の槐蚕《やままゆ》がいつもひいやりの頸首《えりくび》の上に落ちる。その時たまたま話しに来た人は、昔馴染の金心異《きんしんい》という人で、手に提げた折鞄《おりかばん》を破れ机の上に置き、長衫《ながぎ》を脱ぎ捨て、わたしの真前《まんまえ》に坐した。犬を恐れるせいでもあろう。心臓がまだ跳《おど》っている。
「あなたはこんなものを写して何にするんです」
ある晩彼はわたしの古碑の鈔本《しょうほん》をめくって見て、研究的の質問を発した。
「何にするんでもない」
「そんならこれを写すのはどういう考《かんがえ》ですな」
「どういう考もない」
「あなたは少し文章を作ってみる気になりませんか」
わたしは彼の心持がよくわかった。彼等はちょうど「新青年」を経営していたのだが、その時賛成してくれる人もなければ、反対してくれる人もないらしい。思うに彼等は寂寞を感じているのかもしれない。
「たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか」
と、わたしはただこう言ってみた。すると彼は
「そうして幾人は已に起き上った。君が著手《ちゃくしゅ》しなければ、この鉄部屋の希望を壊したとい
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