貴方に十分な御礼を下さる御考えである由を御伝え申すようにとの事に御座います。が、これから後六日の間毎晩一度ずつ殿様の御前《ごぜん》で演奏《わざ》をお聞きに入れるようとの御意に御座います――その上で殿様にはたぶん御帰りの旅に上られる事と存じます。それ故明晩も同じ時刻に、ここへ御出向きなされませ。今夜、貴方を御案内いたしたあの家来が、また、御迎えに参るで御座いましょう……それからも一つ貴方に御伝えするように申しつけられた事が御座います。それは殿様がこの赤間ヶ関に御滞在中、貴方がこの御殿に御上りになる事を誰れにも御話しにならぬようとの御所望に御座います。殿様には御忍びの御旅行ゆえ、かような事はいっさい口外致さぬようにとの御上意によりますので。……ただ今、御自由に御坊に御帰りあそばせ』
芳一は感謝の意を十分に述べると、女に手を取られてこの家の入口まで来、そこには前に自分を案内してくれた同じ家来が待っていて、家につれられて行った。家来は寺の裏の縁側の処まで芳一を連れて来て、そこで別れを告げて行った。
芳一の戻ったのはやがて夜明けであったが、その寺をあけた事には、誰れも気が付かなかった――住職はよほど遅く帰って来たので、芳一は寝ているものと思ったのであった。昼の中芳一は少し休息する事が出来た。そしてその不思議な事件については一言もしなかった。翌日の夜中に侍がまた芳一を迎えに来て、かの高貴の集りに連れて行ったが、そこで芳一はまた吟誦し、前囘の演奏が贏ち得たその同じ成功を博した。しかるにこの二度目の伺候中、芳一の寺をあけている事が偶然に見つけられた。それで朝戻ってから芳一は住職の前に呼びつけられた。住職は言葉やわらかに叱るような調子でこう言った、――
『芳一、私共はお前の身の上を大変心配していたのだ。目が見えないのに、一人で、あんなに遅く出かけては険難だ。何故、私共にことわらずに行ったのだ。そうすれば下男に供をさしたものに、それからまたどこへ行っていたのかな』
芳一は言い※[#「しんにゅう+官」、第3水準1−92−56]れるように返事をした――
『和尚様、御免下さいまし! 少々私用が御座いまして、他の時刻にその事を処置する事が出来ませんでしたので』
住職は芳一が黙っているので、心配したというよりむしろ驚いた。それが不自然な事であり、何かよくない事でもあるのではなかろうかと感じたのであった。住職はこの盲人の少年があるいは悪魔につかれたか、あるいは騙されたのであろうと心配した。で、それ以上何も訊ねなかったが、ひそかに寺の下男に旨をふくめて、芳一の行動に気をつけており、暗くなってから、また寺を出て行くような事があったなら、その後を跟けるようにと云いつけた。
すぐその翌晩、芳一の寺を脱け出して行くのを見たので、下男達は直ちに提灯をともし、その後を跟けた。しかるにそれが雨の晩で非常に暗かったため、寺男が道路へ出ない内に、芳一の姿は消え失せてしまった。まさしく芳一は非常に早足で歩いたのだ――その盲目な事を考えてみるとそれは不思議な事だ、何故かと云うに道は悪るかったのであるから。男達は急いで町を通って行き、芳一がいつも行きつけている家へ行き、訊ねてみたが、誰れも芳一の事を知っているものはなかった。しまいに、男達は浜辺の方の道から寺へ帰って来ると、阿彌陀寺の墓地の中に、盛んに琵琶の弾じられている音が聞えるので、一同は吃驚した。二つ三つの鬼火――暗い晩に通例そこにちらちら見えるような――の外、そちらの方は真暗であった。しかし、男達はすぐに墓地へと急いで行った、そして提灯の明かりで、一同はそこに芳一を見つけた――雨の中に、安徳天皇の記念の墓の前に独り坐って、琵琶をならし、壇ノ浦の合戦の曲を高く誦して。その背後《うしろ》と周囲《まわり》と、それから到る処たくさんの墓の上に死者の霊火が蝋燭のように燃えていた。いまだかつて人の目にこれほどの鬼火が見えた事はなかった……
『芳一さん!――芳一さん!』下男達は声をかけた『貴方は何かに魅《ばか》されているのだ!……芳一さん!』
しかし盲人には聞えないらしい。力を籠めて芳一は琵琶を錚錚※[#「口+戛」、第3水準1−15−17]※[#「口+戛」、第3水準1−15−17]と鳴らしていた――ますます烈しく壇ノ浦の合戦の曲を誦した。男達は芳一をつかまえ――耳に口をつけて声をかけた――
『芳一さん!――芳一さん!――すぐ私達と一緒に家にお帰んなさい!』
叱るように芳一は男達に向って云った――
『この高貴の方方の前で、そんな風に私の邪魔をするとは容赦はならんぞ』
事柄の無気味なに拘らず、これには下男達も笑わずにはいられなかった。芳一が何かに魅《ばか》されていたのは確かなので、一同は芳一を捕《つかま》え、その身体《から
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸川 明三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング