件の驚きが消え失せぬようであった。
 客のすべてが入ってしまうと、門も玄関の戸もぴたりと閉った。そして彼等は扉の二重になっている陳列室に入ることが出来た。部屋の窓には大きな鎧戸がある外に鉄の格子が張ってあった。そして中に十二枚の綴れの錦が陳列されてあった。
 錦というのは、ウイリアム征服王に従って来た武士の子孫が、十六世紀の頃アラスの名工エジエハン・ゴセットに織らせたもので、織り出された図は英国征服史である。それが五百年後、英国のある古城から発見されたのである。それを大佐はどうしたものかわずか五万フランで買入れたのだというが、実際の値段は十倍以上もあるものであった。
 十二枚の中、一等美しくて立派なものは、かつてルパンに盗まれて、再び取りかえしたものである。それにはウイリアム征服王の軍に踏み破られたハスチングスの民の、累々として積る無残な屍体の中に、エジスが首をさし伸べつつ、愛人チキソン王ハロルトの屍《しかばね》を探している世にも愁《うれ》わしい図が描かれていた。その質朴な美、その色ざめた中にある雅趣、人物の姿は惨憺《さんたん》哀愁人に迫るものがあった。
 客はこの名画名技の前に来って、思わずうっとりして我を忘れて感嘆の声を久しゅうした。薄命の王妃エジスの憂れわしい姿は、百合の花が雨に打たれた風情とも見られた。見よ、彼女の白衣はしゅうしゅうと吹き来る風に飜り、歩むも危き脛《すね》もあらわに、空にひろげた細腕にはあらゆる恐怖とあらゆる悲愁の情が刻まれるとも見えた。ああ絶望の微笑をうかべた横顔、それはまことに世にも類いなき哀れさであった。
『何という悲しい微笑でしょう! そして何と[#「と」は底本では欠落]いう美しい微笑でしょう! スパルミエントさん。何だか奥様を思わせるような顔付ではありませんか。』
 一批評家はふとこう言った。他の人々はそれを熱心に聞いていた。
『まったくですね。私もすぐそう思いましたよ。あの首筋のしなやかな曲線、その細い手、横顔といい、姿といい、物腰といい、どうも似通っていますね。』
『ハハハハ、そうですかな。実は私がこの壁布を買い求めましたのも、これがよく似ていましたからですよ。いやそればかりではありません。どうも妙な縁で、家内の名もエジスというのです。』
 大佐はなお笑いながら、
『でも、何ですね、壁布のエジスと、家内のエジスと似るのは結構ですが、家内が夫の屍体を探すような運命にはなりたくはありませんな。私は死にたくはありませんな。話はこの辺でおしまいにしようじゃありませんか。でも、この壁布が、もし盗られるような事があったら、さア、そうなったら、私も自殺しなければなりませんな。ハハハハハ。』
 大佐は大口を開けて笑ったが、[#「、」は底本では「。」]その笑声は決して陽気なものではなかった。この後この夜の事が話題に上った時、人々はこの時の事を思い出して、お互にハタと声を呑んで息を殺したということである。この時の来客は、一人としてこの冗談に答えることが出来なかった。
 しばらくして一人がこの不吉な冗談を打消すように、
『でも、スパルミエントさん。あなたはハロルドという名前ではないじゃありませんか。』[#「』」は底本では欠落]と言った。
 大佐は快活に、
『そうです。私はハロルドとは言いません。そしてハロルド王に似ている所は少しもないでしょう。だからこの点は安心ですよ。』
 と、この大佐の言葉の終るのを待っていたように、窓の方にあって、俄然として一声強くはげしい電鈴が鳴りひびいた。同時にスパルミエント夫人はキャッと叫んで夫の腕に倒れるようにすがりついた。
『どうした? どうした?』と大佐は夫人を抱きしめた。
 来客一同も、思わず水を浴びたように固くなって、窓の方を見た。
『どうしたんだろう? どうも怪しい。あのベルの装置を知っているのは私より他にないはずだ!』
 と、今度は俄かに電燈が一時にパッと消えて、あたりは真の闇になった。そして下から上まで、部屋々々の電鈴が耳も聾《ろう》せんばかりに一時に鳴り初めた。
 一同は、狂人のようになってうろたえさわいだ。逃げ惑った。婦人達は悲鳴をあげて泣きわめき、男達は締めた戸口に折重なり、どんどん戸を叩き押しあいへし合い、我勝に逃げ出ようとして人を突飛ばし、倒れ、踏みつけた。ちょうど狂犬に追われるか、爆弾を投げつけられたような騒ぎであった。
 大佐は声をはげまして、その混雑を制しようとした。
『どうぞお静かに、騒がないで下さい‥‥大丈夫です。今|灯《あかり》をつけます。スイッチがここにあるんですから‥‥この隅に‥‥』
 大佐は客を掻きわけて陳列室の角に行った。電燈はサッとともった。と、同時に電鈴の音もパッタリと止った。

          三

『壁布は?』
『ある!』
 
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