体はサッと椅子から流れて、匕首一閃《ひしゅいっせん》の繊手は哀れ宙に支えられてしまった。
彼はこんな事は日常の茶飯事だと云わぬばかりに別に驚きも怒りもしないらしい。そして刃物三昧には馴れ切った男と見えてちょっと肩を聳《そびや》かしたまま、黙って室内を大股に歩き出した。
女は刃物を投げ棄《す》てて泣き出した。両手を顔に押し当てて泣く、啜《すす》り泣くたびに頭から爪先《つまさき》まで身を慄《ふる》わせる。
代議士は再び彼女のそばに来てなおも卓を叩きつつ何事か囁《ささや》いている。女は断然|頭《かしら》を振ったが彼がなお執拗に云うや、足をもって床を踏み鳴らしつつ、ルパンにも聞き取れるほどの声で決然《きっぱり》と云った。
『厭です……厭です……』
すると彼は何も云わずに、女が着て来た厚い毛皮の襟付の外套を取って、これをその肩にかけてやった。女は襟を立てて顔を包んだ。
女は出て行った。
ドーブレクの生活はすこぶる規律的で、ただ警官の張込をといた暁方《あけがた》に二三の来客があるばかりであった。そこで日中は二名の部下を見張らせ夜中はルパン自身で監視する事にした。
前夜と同じく午前四時頃一人の男が訪ねて来た。例によって覗いていると、その男はドーブレクに対して流涕《りゅうてい》して哀訴し合掌して嘆願し、最後にはピストルを振《ふる》って威嚇したが、ドーブレクはセセラ笑って取りあわない。ついにその男は千|法《フラン》の紙幣三十枚を代議士の前に差し出して帰って行った。門外に見張っていた部下から翌朝になって前夜の男は独立左党の領袖《りょうしゅ》ランジュルー代議士で生活困難家族多数という報告が来た。
三日後に前大臣で、元老院議員ドショーモンが来、その翌日ポナパル党出身代議士アルビュフェクス侯爵が来、同じく哀訴嘆願の百万遍を尽《つく》して、最後に巨額の金や貴金属を取られた。
『きゃつは何かの秘密を握って、それを種に恐喝して金を捲き上げておるに相違ない。俺が幾日見張っていても仕様がない。何か局面を転換させずばなるまいが……と云って脅迫された連中に会ったところで、実を吐く気づかいは無い……』
ルパンは思案に暮れて黙考《もっこう》していると、ビクトワールが電話室でドーブレクの電話を立聴《たちぎ》いていた。
ビクトワールの話によると、ドーブレクは今夜八時半にある婦人と会見し、共に
前へ
次へ
全69ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ルブラン モーリス の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング