見たてて、十歩ぐらいはなれたところから、投縄の練習をはじめた。
首にひっかけたら、すぐに、縄にはずみをつけて、輪を送って、右でも左でも、前足にその輪をひっかけて、ぐっと引けばいいのだ。三日も四日も、めしをたべる時間もおしんで、練習した。子どもだって、いっしんは通るよ、上手になったね。おしいことには、いよいよ白くまと対面というときに船は出帆してしまった。おとうさんは、――これはあぶない――と思われたにちがいない。
この投縄は、いい運動にもなるし、何かの役にもたつよ。みんな、やってどらん、おいらが教えるよ。
それから、なぜ、フロスト・ウイリアムのおいらが、小笠原島吉《おがさわらしまきち》となったかを、ひとつ話しておこうね。
おいらが三十一歳のとき、明治八年に、ボーニン島が、日本の領土となって、日本小笠原諸島とはっきりきまったのだ。おいらの生まれた島だ。なつかしい島だ。島が日本の領土となったのだから、おいらも日本人だ。そうだろう。それで帰化して日本人となった。フロスト・ウィリアムが、日本名まえにかわって、島の名をそのままもらって、小笠原島吉。どうだ、いい名だろう。
漁夫の範多《はんた》のことも、ちょっといっておこう。範多のおやじは、捕鯨銃の射手から、ラッコ猟船《りょうせん》の射手となった。鉄砲の名人だったよ。射手のことを、英語でハンターというのだ。ハンターのせがれの、エドワーズ・フレデリックが帰化して、おやじの職業のハンターをそのままつけて、範多|銃太郎《じゅうたろう》となったのだ。
ここにいる、おいらのいとこの、ハリス・ダビッドが、父島一郎、これも、小笠原諸島の父島に住んでいたので、島の名をそのままつけたのだ。
このつぎには、もっとおもしろい話をしよう。きょうはこれでおしまい。
天幕の中は、われるような拍手である。
鳥の郵便屋さん
七月のはじめに、宝島で、名刺くらいの大きさの銅の札で、ひもを通したらしいあなのあるものを発見した。その札のおもてに、かすかに英文らしい文字があらわれているといって、運転士が、本部島の私のところへ持ってきた。
双眼鏡のレンズを虫めがねにして、よく見ると、釘《くぎ》でかいた英文であるが、なにぶんにも長い月日をへたものらしく、ほとんど消えかかっていた。帰化人や練習生など、英語のわかるものが、よってたかって、やっと読むことのできたのは、
「……、……島、難破、五人生存、救助――一八……年……」
という意味の文字だけで、船の名と、島の名、年月は消えていた。
それで、この銅の札は、どこかの島で難破した外国船の、生き残った五人が、船底にはってあった銅板に、釘でみじかい救助をもとめる文章をかいて、海鳥の首につけて、飛ばしたものにちがいない。
「どうなったろう、五人の人たちは……」
みんなの思っていることを、練習生の秋田がいった。
すると小笠原老人は、
「心配することほない、昔のことだ。こんなことは、助かったものと、きめておけばいいのだ」
と、いいきった。
「銅の札は、いい思いつきだ、われわれもさっそく、まねをしよう」
私は、われらの倉庫から、このまえ流し文《ぶみ》に使った銅板の残りが、たいせつにしまってあったのを出させて、十枚の銅の札をつくらせ、ひもを通すあなをあけさせた。それから、釘で、
「パール・エンド・ハーミーズ礁《しょう》、龍睡丸《りゅうすいまる》難破、全員十六名生存、救助を乞《こ》う。明治三十二年七月」
と、日本文で書き、そのうらに、英文でおなじ意味のことを書かせた。日本文は、会員と練習生に、英文は帰化人に書かせた。書く者は、「これできっと助かるのだ」と思いこんで、いっしんこめて書いた。
「国後《くなしり》。この札をつけて飛ばせるのに、役にたちそうな鳥をつかまえてくれ。なるべく元気なやつを、たのむよ」
鳥と国後とは友だちだと、みんなが思っているのもおもしろい。
国後がつかまえてきた海鳥の首に、銅板の一枚をじょうずに細い針金でしばりつけて、さて飛ばそうとしたが、札が大きすぎて、重くて鳥は飛べない。そこで、だんだんに札を小さくして、鳥が首につけて飛べるだけの大きさがわかったので、アジサシと、アホウドリと、あわせて十羽の海鳥の首に、その札をつけて、浜に出て、みんなで飛ばせた。
首に札をつけられて、びっくりした鳥は、一羽一羽かってな方角へ、高く飛んで行った。雨雲がひくく水平線にたれさがって、いまにも降り出しそうな空に、鳥のゆくえを見まもって、浜べに立った人たちは、
「鳥の郵便屋さん、たのむぞ」
「潮の流れの郵便屋さんよりは、鳥の方が速くて、ましかも知れない。どこかの島へおりるからね。無人島じゃ、せっかく配達してくれても、受け取る人がないや……」
「アジサシにアホウドリ、どっちがたしかかなあ――」
思い思いのことをいった。
浅野練習生が、とつぜん大きな声で、
「あの鳥がいると、昔話のとおりだがなあ……」
その声に、水夫長は、びっくりしたような顔をして、ふりむいて、
「なんだい。昔話のあの鳥というのは、わけがありそうだな。教えてくれよ」
知らないことは、なんでも、だれにでも聞こうとするのは水夫長のいい心がけだ。私がいつであったか、「聞くはいっときの恥。知らぬは末代の恥」という話をしたことがある。それからずっと、私の話のとおりに実行しているのだ。
「話はばかに古くって、長いのだよ」
「じゃあ、みんな、ゆっくり砂にあぐらをかいて、聞かせてもらおう」
この連中は、このように、おりにふれ、事にあたって、研究したり、わけを知ろうとする心がけの人ばかりであった。
浜に円陣をつくって、あぐらをかいた人たちに、浅野練習生は話しはじめた。
「ずっとまえに、修身の本で読んだ話です。今から二千年も前、漢の国に、蘇武《そぶ》という人があって、皇帝の使者として、北の方の匈奴《きょうど》という国へ行った。ところが匈奴では蘇武をつかまえてこうさんしてけらいになれといったが、蘇武はきかなかった。そこで、大きなあなの中へぶちこんで、食物をやらずにおいたが、蘇武は何日たってもへいきでいた。これを見て匈奴では、蘇武はただの人ではないと思って、殺さずに、ずっと北の方の、無人のあれ野原に追いやって、雄のひつじを飼わせて、この雄のひつじからお乳が出るようになったら、おまえの国へ帰らせてやる、といいわたした。それでも蘇武はへいきだった。はじめあなに入れられたときは、雪が降ったので、じぶんの着ていた毛織物の毛をむしりとって、雪といっしょにたべて、生きていた。あれ野に追い出されてからは、野ネズミをとってたべたり、草の実をたべたりして、十年も十五年もがんばっていた。
十九年めに、漢の国から匈奴の国へ使者がきて、蘇武をかえせと申しこんだ。すると匈奴では、蘇武はとっくの昔に死んでしまった、といったが、漢ではスパイの通知で、蘇武の生きていることを知っていたから、たぶんこんなことをいうだろう、そうしたらこういってやろうと、考えていた計画のとおりに、
『そんなことはない。蘇武は生きている。つい先日、私の方の皇帝が、狩に出て、空飛ぶ雁《かり》を矢を放《はな》って射落したら、雁の足に、白い布に墨で書いたものがしばりつけてあった。ほどいてひろげてみたら、蘇武からの手紙で、私は北のあれ野原に生きている、助けてください、と書いてあった。うそをいわないで、蘇武をかえしてください』
と使者はいった。この計略にうまく引っかかった匈奴は、一言《いちごん》もなく、十九年めに蘇武をかえした。
このことがあってから、手紙のことを、『雁の使』というようになったのです」
聞く人も話す人も、たったいま、銅の札に、「助けてくれ」と釘で書いて、海鳥の首につけて、飛ばせたばかりだ。みんなは、蘇武の話に深く感動した。水夫長は、すっかり感心して、
「生徒さん、ありがとう。よくわかった。蘇武という人は十九年もがんばったのだなあ。――わしらは、これからだ」
龍睡丸乗組員は、海の人として、不屈の精神をもった、りっぱな者がそろっていた。めったなことには、気を落さない。命のあるかぎり、いつかすくわれる、という希望をかたく持っていた。海流に配達してもらう郵便にも、鳥に運んでもらう手紙にも、望みをすてはしない。
小笠原老人は、みんなにいった。
「いまの話を聞いて、この島はいい島だと、つくづく思うね。あたたかくて、たべ物がたんとあって、人数も多くて、にぎやかだ。そのうえ、いろいろのいい話が聞かれて、勉強になる。ほんとにわれわれはしあわせだよ。いつまでもがんばることだ」
いつも、料理を指導している運転士は、
「野ネズミや草の実で、十九年もがんばった人もある。さあ、魚とかめの昼飯だ。がんばろう」
といいながら昼飯に立ちあがった。
さて、昼飯のこんだては、カツオのさしみに、島に生えたワサビ、タカセ貝のつぼ焼、かめの焼肉である。野ネズミと草の実にくらべると、天と地のちがいがある。
「ありがたいなあ――このごちそうだ」
「何十年でもがんばるぞ」
だれかれが、思わずもらしたことばだ。これはまったく十六人の気もちをいったものであった。
一同は、天幕《テント》の中で、船長を上座に、その両がわに、ずらりと二列に向きあって、ござの上にぎょうぎよくすわって、料理当番のくばる食事を、いつもよりは、いっそうおいしく思った。そしてよくかんで、食糧のじゅうぶんなことを感謝しながらたべていると、雨もようだった空は、ぽつり、ぽつり、そしてたちまち、ひどい降りになってきた。
「それっ。水だ」
みんなは、すぐに箸《はし》をおいて、大いそぎで、雨水をためるように、風よけ幕を、外の方へはり出した。こうして、小屋の屋根に降る雨水が、石油|缶《かん》にどんどんたまるのを、楽しく見ながら、また食事が、にぎやかにつづくのであった。
この日の午後は、雨の日の例によって、茶話会である。漁業長の捕鯨の話、帰化人|範多銃太郎《はんたじゅうたろう》のラッコ猟の話、それにつづいて、小笠原老人が、午前中に流した銅板のはがきにつながりのある、船と郵便の話をした。
おいらたちのわかいじぶん、捕鯨帆船は、一年ぐらいはどこへも船をよせずに、大海原を、あっちこっちと、鯨を追っかけて航海していたものだ。故郷や友だちへ手紙を出すことなんか、だれも考えていなかった。それでも太平洋には、郵便局が一つあった。
それは、南アメリカのエクアドルの海岸から、西の方へ六百カイリのところ、太平洋の赤道直下に、火山の島々、ガラパコ諸島がある。それは、十何個の島を主とした、六十ばかりの火山島の集まりで、スペイン人が発見した諸島だ。
ガラパコというのは、陸に住む大がめのことで、このかめは、陸かめのなかでいちばん大きなかめで、こうらの直径一メートル半もあって、人間を乗せてもへいきでのこのこ歩くのだ。ガラパコ諸島には、そのガラパコがたくさん住んでいるから、ガラパコ島というのだ。このかめには、べつに象がめの名がついている。からだが大きいからそういうのでもあるが、また、その足が、象の足によくにているからでもある。なんでもかめは七種類あって、島がちがうと、住んでいるかめの種類も、ちがうそうだ。
つい近ごろまでこの島々には、まるっきり人が住まっていなかった。それで昔は、船をつけるのにいちばんつごうのいい島は、海賊の巣であったが、のちには捕鯨船が、この島の港に船をよせては、飲料水をくみこんだり、たきぎを切ったり、糧食の補給に、木の実や、野生の鳥、けだもの、それからガラパコをつかまえていた。
いったい、この島にはめずらしい動物が多く、イグアナという大トカゲの、一メートルぐらいのものがたくさんいるし、飛べない鳥もいた。また小鳥たちは、人間を友だちと思っているらしく、へいきで人の肩にとまったり、靴の先をつっついてみたりした。
この無人島の港に、百年ぐらいまえから、有名なガラパコ郵便局ができた。そして捕鯨船なかまには、たいへんに役にたっ
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