きた。
それは、天気のいい、波のごく静かな日に、伝馬船《てんません》を漕《こ》ぎ出して、島から少しはなれた、沖の海をのぞいてみるのだ。すると、海面は、水の世界の高い空で、島は、空の上につきでた高い山の頂上にたとえられる。この山の頂上から急傾斜の深い深い谷が、まっ暗で見えない海底までつづいている。それで伝馬船は、水の世界の空にうかんだ軽気球ということになる。
日中は、太陽の光がすきとおって、かなりの深さまで見える。島から、深い海の谷底へ下る斜面には、海藻の林がある。この林の間を魚の群がおよいでいる。山の頂上に近いところ、すなわち浅いところには、お花畑がある。ここがいちばん美しくておもしろい。美しい海藻と珊瑚が、いっぱい生いしげっていて、どちらを見ても、青、緑、褐色、黄、むらさき、赤など、目もあざやかな色どりだ。また、その海藻や珊瑚の形は、枝を組み合わせたようなもの、葉ばかりのもの、果実や、キャベツが、いくつもかたまって生えたようなものなどで、陸に生えている、大小あらゆる種類のシャボテンを、うんと大きくしたようなものが、びっしりかさなっていると思えば、だいたい形だけのそうぞうはつく。
だが、その色の美しいこと、種類の多いことは、とても説明ができない。たとえば、夜明けに、幾千のあさがおが、かさなって咲いているようである。陸上の、どんな美しい花園でも、とてもかなわない。大きなイソギンチャクは、美しいきくの大輪が咲いたのとおなじだ。ウミイチゴは、まっ赤な大きないちごそっくりで、まったく、おとぎ話の龍宮城の、乙姫《おとひめ》さまの花園といったらいいだろうか。
そして、この美しい、珊瑚石、きくめ石、なまこ石、シャボテン石、海まつ、海筍《うみたけ》、海綿、ウミシダ、ウミエラなど、極彩《ごくさい》色の絵もようの間を、出たりはいったりして、ゆらりゆらりおよぎまわっている、いっそう美しい色どりの魚群がいる。
これらの魚の色の美しさ、形のめずらしさは、珊瑚や海藻いじょうである。陸上でいちばん美しい動物は、蝶《ちょう》と鳥だといわれているが、この珊瑚|礁《しょう》に住む魚の、チョウチョウウオ、スズメダイ、ベラなどの美しさは、私には説明ができない。珊瑚や海藻よりも、いっそう強い色をもっていて、赤、もも色、紅《くれない》、黄、橙《だいだい》、褐色、青、緑、紺、藍《あい》、空色、黒など、まるで、ぬりたてのペンキのように光っている。また、その色のとりまぜがおもしろい。だんだらぞめ、荒い縦縞《たてじま》、横縞をはじめ、まったくそうぞうもつかない色どりをもったのがいる。そして、その形もまためずらしいのが多い。長い尾や、ふしぎな形のひれを動かして、まるで、陸上の蝶や、美しい鳥の群が、咲きほこった花の間を飛んでいるように、およいでいるのだ。
あまりの美しさに、見とれていると、この美しい魚の色が、急にぱっとかわったりする。何かにおどろくと、色をかえるのだ。すると、大きな魚が、すうっとおよいでくる。この大魚の一群が、またあわてて、矢のように早くおよいですがたを消すと、魚形水雷のような、巨大なふかの一群が、大いばりでやってくる。おもしろいかっこうの頭をしたシュモクザメが、通って行く。このふかの一群には、ゆだんはできない。
伝馬船のような小船には、おそいかかってくることがある。
こんな海中のありさまは、天気のいい時は、四十メートルぐらいの深さまで、すきとおって見える。海水がすみきって、きれいなので、二十メートルぐらいの深さも、せいぜい五メートルぐらいにしか見えない。
太陽が、ずっと西にまわって、夕日が、島にまっ赤なカーテンをおろすと、海もまっ赤になる。やがて、空も島も海も、夕やみにつつまれて、星かげが海にうつりはじめると、今までたくさんおよいでいた魚は、みな、どこかへ行ってしまう。龍宮城の花園も、トルコ玉の青いうろこをじまんした小魚のすがたも見えなくなって、海藻の林の中に生えている、ウミエラ、ウミシャボテンが光ってくると、海の中に、何千、何万という、蛍《ほたる》のような光が、上下左右に動きだす。空の星がうつっているのか。いや、そうではない、夜光虫の群である。
この光の間を、光る魚が、ぴかぴかした着物をじまんするようにおよぎまわる。これもまた、どんなに美しいながめであるか、口ではいいようもない。しかもこの、うつむいてのぞいて見る、光りかがやく海中の夜光虫は、あおいで見あげる、空気の世界の、星よりも数が多いのだ。
われわれは、魚つり当番のとき、伝馬船を漕ぎ出しては、この水の世界をのぞいた。そして、龍宮城の花園の美しさや、魚類の美しい色、おもしろい習性に、かぎりない喜びをおぼえた。見れば見るほど、考えれば考えるはど、ふしぎに思われるものが多い。このふしぎに思うことを、少しずつ研究していくうちに、いうにいわれぬ、おもしろさがわいてくるのであった。
そして、漁業長の説明によって、実物教育と、研究の指導を受けて、たいへんな勉強になった。漁業長と、その助手の小笠原《おがさわら》老人は、この美しい珊瑚礁の海いったいを、われらの標本室《ひょうほんしつ》といっていた。この二人は、太平洋を、じぶんのものと思っているらしい。少なくとも、本部島や宝島付近は、じぶんのものときめていた。
ここでつった魚は、イソマグロ、カツオ、カマス、シイラ、赤まつ鯛《だい》、白鯛、ヒラカツオ、カメアジなど、多くの種類で、ときどきは、長さ二メートル、太さ人間の足ほどもある海蛇や、尾のなかほどに毒針のある、アカエイも、つり針にかかった。ふかもたくさんいたが、ふかはつらなかった。
浜べには、貝が砂利《じゃり》のようにうちあげられていた。名も知らぬ幾百種類の貝は、大博物館の標本室いじょうである。そして貝類も食用にした。ウニ、タカセ貝、チョウ貝などをよくたべた。
島の波うちぎわには、白い珊瑚がくだけてできた、雪のような砂が、ぎらぎらとてりつける日光に、白銀のようにかがやいていた。
そこには、いろいろの色どりの、大小のカニがいた。珊瑚のかたまりのかげには、緑色のカニで、鯨が潮をふくように、水をふきだすのもいた。静かな夜に、ぐぐぐぐ、と、鳴くカニもいた。いちばん大きなのは、暗くなって、鳥の目が見えなくなったとき、海鳥のアジサシのひなを、大きな釘《くぎ》ぬきのようなはさみでつまんで、せっせとじぶんのあなに運んでいく、匪賊《ひぞく》のようなカニもいた。
われわれが、この無人島にいた間、さびしかったろう、たいくつしたろう、と思う人もあるだろう。どうして、どうして、そんなことはなかった。
空にうかぶ雲でさえ、手をかえ品をかえて、われらをなぐさめてくれた。雲は、朝夕、日にはえて、美しい色を、つぎつぎに見せてくれた。とりわけ、入道雲はおもしろく、見あきることがなかった。
雲の峯《みね》は、いろいろにすがたをかえた。妙義山となり、金剛山となった。それがたちまち、だるまさんとなり、大仏さんとなった。ある時は、まっ黒いぼたんの花のかたまりのような雲が、みるみる横にひろがって、それが、兵隊さんがかけ足をするように、島の方に進んでくると、沖の方にはもう雨を降らし、うす墨の幕がたれさがっている。その雨の幕が、風といっしょに島におしよせて、いい飲み水を落してくれるのだ。
みんなは、このように、大自然と親しみ、じぶんたちのまわりのものを、なんでも友だちとしていた。
ものごとは、まったく考えかた一つだ。はてしもない海と、高い空にとりかこまれた、けし粒のような小島の生活も、心のもちかたで、愉快にもなり、また心細くもなるのだ。
いつくるか、あてにならぬ助け船を、あてにして待っている十六人。何年に一度通るかも知れない船のすがたを、気長に見つけようとしている十六人である。この中に、もし一人でも、気のよわい人があったら、どうなるだろう。
気のよわい人は、夜ねられない病気になるのだ。夜中に、人のねしずまったとき、空をあおいで、銀河のにぶい光の流れを見つめていると、星が一つ二つ、すっと長い尾を引いて流れとぶ。
「あっ。あの星は、日本の方へ飛んだ――あっちが日本だ……」
と考える。そうすると、足もとに、ざあっ、ざあっ、とよせてくる波の音も、心さびしくなる。しのびよる涼風《すずかぜ》が、草ぶき小屋の風よけ帆布をゆすぶると、なんだかかなしくなってしまう。月を見ても、ふるさとを思いだす。つくづく考えてみると、待ちわびる帆かげ船も、いつまでたってもすがたを見せない。すっかり気を落して考えこんで、しまいには病気になってしまう。はてしもない高い空の大きさと、海の青さを、心からのろったという、漂流した人の話さえ、つたえられている。
ぽかんと手をあけて、ぶらぶら遊んでいるのが、いちばんいけないのだ。それでわれらの毎日の作業は、だれでも順番に、まわりもちにきめた。見はりやぐらの当番をはじめ、炊事、たきぎあつめ、まきわり、魚とり、かめの牧場当番、塩製造、宿舎掃除せいとん、万年灯、雑業、こんな仕事のほかに、臨時の作業も多かった。宝島を発見してからは、宝島がよいの伝馬船漕ぎ、宝島でのいろいろの当番もできた。
これらの作業ほ、どれもこれも、じぶんたちが生きるために、ぜひやらなければならない仕事であった。だれもかれも、ねっしんにじぶんの仕事にはげんだ。
私が感激したことは、私の部下はみんな、
「一人のすることが、十六人に関係しているのだ。十六人は一人であり、一人は十六人である」
ということを、はっきりこころえていて、いつも、心をみがくことをおこたらなかったことだ。
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3
学用品
島生活に、だんだんなれて、時間にゆとりができてきた。そこで、六月の中ごろから、学科時間を、午前、午後、一日おきに入れた。
練習生と会員、それからわかい水夫と漁夫のために、船の運用術、航海術の授業を、私と運転士が受け持った。漁業長は、漁業と水産の授業と、実習を受け持った。このほかに、私が数学と作文の先生であった。
学用品には苦心した。三本のシャベルを石板のかわりにして、石筆には、ウニの針を使った。島のウニは大きい。くりのいがのような針の一本は、大人の小指くらいもあった。はじめは赤いが、天日にさらしておくと、まっ白になって、りっぱに石筆の代用となった。これでシャベルの石板に、みじかい文章を書き、計算をした。
習字は、砂の上に、木をけずった細いぼうの筆で書かせた。
練習生二人には、帰化人三人に、漢字を教えさせ、帰化人には、練習生と会員に、英語の会話と作文を教えさせた。
だから、なにかのつごうで作業のすくないときは、まるで学校のような日もあった。一週に一度、私が一同に精神訓話をした。
「インキがほしい」
と、私がいった。
水夫長が、万年灯《まんねんとう》にたまった油煙をあつめて、米を煮たかゆとまぜて、インキのようなものをつくった。そして、海鳥の太い羽で、りっぱな羽ペンはできたが、インキは役にたつものではなかった。
漁業長が、カメアジの皮を煮つめて、にかわをつくって、水夫長のインキにまぜて、とうとうりっぱなインキができあがった。このインキは、水に強く、帆布に文字を書いて海水にひたしても、消えない。
そこで、帆布を救命|浮環《うきわ》にはりつけ、その帆布に、このインキで、
「パール・エンド・ハーミーズ礁、龍睡丸《りゅうすいまる》難破、全員十六名生存、救助を乞《こ》う」
と、日本文で書き、おなじ意味を英文で書いて、伝馬船《てんません》で沖にもっていって、
「われらの黒潮よ、日本にとどけてくれ。――救命浮環よ、通りかかった船にひろわれてくれ」
と念じて、人目につくよう、帆布の小旗を立てて流した。
「インキよ、何年、波風にさらされても消えるな。――文字よ、いつまでも、はっきりしていてくれ。人に読まれるまでは……」
十六人は、この救命浮環とインキに、大きな望みをかけていた。
インキができたので、帆布に日記を書きはじめた
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