眉根に皺をよせて、ぢつと私が咳き入るのを眺めました。私が漸く落ちついてあの人の顏を見上げた時、あの人もまたぢつと私の眼を見入りました。そして明に何かを言はうとして、思ひ返したやうに口許を動しました。
 けれども、私はあの人のいたむやうな目付のうちに、その意を讀みました。
『あなた、傳染《やら》れたのぢやありませんか?……』
 私はあの人の眼のその懸念に答へて、默つてしづかに笑ひました。
『いゝのよ。』
 恐らく、私の眼はかうその時あの人に答へてゐたでせう。
『今日はもうやめませうね。』
『いゝえ、構はないわ!』
『でも……』
『いゝのよ、もう少しやりませうよ。』
 私は遮るやうに彼をとめて、自分から再びもとの位置に體を置きかへました。私は實はそのまゝしづかにじつとして、彼の眼の質問について、自分でもよく考へて見たかつたのです。
 私達はまたしばらく仕事を續けました。日はもうかげつて、窓に映る木の影もなく、障子の棧の一つ一つに、私は思を手繰つては絡みつけました。
『もし果してさうだとしたら?……』
 けれども、不思議にも私の心はその事によつて少しも惑亂しないやうでした。ほんの一寸の間急速な皷動が心臟を襲うたやうであつたけれど、間もなく再び順調にかへり、やがて不自然な微笑が靜に私の唇にのぼつて來るのでした。
『いゝわ!』と、私はやつぱり自分の心に呟きました。それは決して投げやりな心からではなく、いはゞ子供のやうに簡單に、あなたと同じ状態にこの肉體がなるといふ事が、新奇な思ひがけない事であつたために、却つて嬉しいやうな氣を私に起させたのでした。
 併しAはもはやはじめのやうな忘我の境に自分を置く事ができなかつたと見え、間もなく仕事をよしてしまひました。私はいつものやうに彼が繪具箱を片づける間に紅茶を言ひつけて、それから私達は火鉢を圍みました。
 私は相變らず時々咳をしました。その度に彼は氣づかはしさうに、そして愛情をすらこめて私の顏を凝視するのでした。
『ほんとにお光さん、大事にしなけりやいけないな。』
 あの人は漸くたつた一言さう言ひました。けれども私はその深い意味に氣付かぬふりをして、いつもよりも機嫌よくあの人を送り出しました。
 翌日、私はあなたにも默つて、甞てあなたの通つてゐた呼吸器病專門のS病院へ診察をうけに參りました。そして二時間あまりの後には、右の肺尖加答兒といふ診斷を貰つて、別にしよげたやうな顏もせず、私はその門を出たのでした。飽くまでも空想ずきな私は、もしその時別に何でもないと醫者に言はれたならば、恐らく却つてある淡い失望を感じたことだつたのでせう。

        十四

 ちようど三角の一線が萎縮したやうな私の病氣は、絶えずある程度な距離をもつて交渉してゐたあなたやAを、急に自分に引き寄せてしまつたやうな觀を呈しました。
 自分が病んでどれほど健康の尊いかを知つてゐたあなたは、その健康の恢復を望む以外にすべての要求を私から去り、ともすれば自分自身の上にのみ向けやうとしてゐた注意を私の方へ轉回させ、さうしてそこに可憐なる者を發見し、自覺したる愛情をもつて私をいたはり助けました。
 その喜と幸福とを私が漸く贏ち得たときには、私は更に肋膜の方も侵されて、發熱や、不眠や、呼吸困難やのために横つてゐたのでした。けれども、私は初めて全身を擧げてあなたの腕に抱かれるやうな心安さと、精神の緊張と共にだんだんあなたの健康の恢復されて行くのを見る事とによつて、私はしかも樂に、寧ろ喜をさへ感じて自分の病氣を眺めたのでした。
 その時Aがまた急に私の心へ接近して來たことを、私はひそかに感じてゐました。これまであの人と私とは、別に申し合せこそしなかつたけれど、互にこゝより先へは一歩も踏み入れてならないといふ所まで來て、自由に敬愛し信頼してその交友を續けて來ました。さうして私も彼も、敢て一歩をその柵内に踏み入れやうとは決して願ひませんでした。それは却つて吾々の交友のをはりであり、これ以上を近づけば却つて離れ去らなければならぬのを、私達の良心はよく知つてゐました。けれども、病氣といふものはたまたま吾々の心をロマンチツクな傾向に導きます。殊にそれが肺病といふ時に於て、吾々はたやすく自分及び自分の周圍に、ある小説的な事件を空想したがるものでした。
 次の日記は、その後の私達の行動を、初めてあなたに語るでありませう。併しそれは別に日記として私が文字に記して置いたものではなく、私はただそれを明に心に記臆してゐます。今その記臆から、私が日記體としてそれを拔萃しようとするのは、その當時の情意をありのまゝにさらけ出したいからで、多少振り返つた形で書いてゐると、ともすれば自分を辯解し飾らうとする氣味が、知らず識らずの間に出て來るのを防ぐためです。それは私がこの手紙を書き出した動機や目的、または今のこの淨められた心に却つて背くものと思ひますから……
 たゞどうかあなた、私を赦して下さい!
『三月一日。何といふ早い月日だらう、それではもう私が寢ついてからひと月近くにもなるのだらうか。病院がよひがだんだん遠のいて――それは併しいゝ結果からではない、肋膜の水はだんだん私の心臟を壓迫して來る、息が苦しい。入院を申し込んでから五日にもなるけれど、まだ部屋のあいたといふ通知がない。そんなに世の中には病人が多いのだらうか? そしてそれらの人もやつぱりみんな私のやうにいろいろな目に遭ひ、いろいろな心を味つてゐることなのであらう。だけど私は別にもう心のこりなことがないやうな氣もする。相變らず熱は高い。なんだかAさんに逢ひたくつて端書を出す。』

        十五

『三月二日。昨日端書を出してからあの人に逢ひたいといふ自分の心持について考へて見た。逢ひたいといふやうな言葉は、沼尾に對して使ひたくないと思ふけれど、でもそれよりほかに言ひやうのない心持でもある。そしてまたなぜ逢ひたいといつたからつて、私の心はたゞ自然にそれを欲するといふよりほかは仕方がない。けれどもこれは危機ではなからうか? 少くも私達の危機の一歩ではなからうか? しかしこの心持は決して今に初めて味ふ心持ではない、そして私達は常に自分自身が穩であられた。……けれども、今私の心は、何かの來るべきものを豫知して、ゆかしき期待の前に恐れ戰いてゐる。一體何が私達の上に來るのであらう? 何を私の心は窺知し、感じてゐるのであらう?……私は考へたけれどもわからなかつた、たゞその何かを待つ如くに、彼が來るのを待つてゐる心持を知つたより外には……私は死ぬのではなからうか? そのためにかくすべてに滿足し、また執着しなければならないのかも知れぬ。もしそれが永遠なるものゝ導であるならば、私は少しもそれを悲しまぬであらう。たゞどうか、私共の上に落ち來るものが、一時の運命の惡戯ではあつてくれないやうに! けれども、私の心は刻々に、正しくある危きものを感じた、いかにしてもそれは、曾てない事であつた。
「神樣! 私は今日あの人を自分でここに呼びました。けれども今はなぜかそれが惡かつたやうな氣がしてゐます。私はどうしようと願ふのでもありません、たゞどうか私達をして今までの如くあらしめ下さい、何事もなくおすませになつて下さい!」
 私はさう遂に心に念じた。
 午後、彼は來た。私はその足音を聞いた時に、何となく胸が躍つた。けれどもふくやが取り次いだ時にはもう平靜にかへつてゐた。
「端書いつ着いて?」
「今朝。僕着くとすぐに出たんだけれど、一寸音羽に(彼の少女の所)寄つたもんだから……今日行くつて約束してたもんだから……」
「さう、ぢやあよかつたんですのに……」
 私はさうした約束のあつた彼を呼んだ事に就て、今更に羞恥を感じながら彼を見上げた。
「うゝん、もういゝの。」
 彼は別に心のこりなやうすもしてゐなかつた。そして枕許に坐つて、
「どう? 工合は。」と、いつものやうにじつと私の目に見入つた。
 その眼は、戀人とゆつくり逢へなかつた事に就いて、決して私に不平を言つてはゐなかつた。私はそれが嬉しいやうな氣がした、同時にまた怖いやうな氣もした。彼はまた別に、
「何か用事だつたの?」と、私に尋ねやうともしなかつた。それでは、彼もまた私と同じやうな氣持でゐるのだらうか、もしかしたらやつぱり彼も何かを私達のうちに感じてゐるのかも知れない。
 何だか氣味がわるい!
「早く入院したいと思ふんだけれど、なかなか室があかないんですつて。」
 私は極めて平凡な事を話さうと思つた。けれどもその努力は却つて私を不自然な状態に置いた。

        十六

 私はいつになく彼に對して心の不自由であるのを感じた。それは私が自分の心を縛めたからではあるけれど、その抑壓の下には、どうかして危險なく彼と親しみたい、しんみりしたいといふ願が潛んでゐた。そして自分の今の身の上を哀つぽく悲しい空氣で包む事によつて、少しづつ少しづつそのおさへをはねのけてゐた。
「ほんとに思ひがけない病氣をするものねえ、あの元氣な私が!」
 私はやがて、遠い過去を顧るやうに目をじつとあらぬ方にそゝいだ。
「あゝ全く、光ちやんがねえ!」と、彼も何かを考へてゐたやうに答へた。
 ふと氣がついてみると、彼は私をお光さんとは言はずに、光ちやんと呼んでゐるのであつた。それは彼の最も親しさを表す時の、極めて稀な呼びかたなのであつた。
「田舍のお祖母《ばあ》さんがね、大變私のことを心配してるのですつて、そしてね、そんな東京なんぞにゐるから病氣になぞなるんだつていつてね、來い來いつていつて來ますからね、私退院したらすぐ田舍に行かうと思つてますわ、そしたら今度はいつ出て來られるのかわからないけれど……」
「氣を揉まないで、すつかり快くなるまでゐて來る方がいゝな。僕寂しくはなるけれど……」
 彼は默つた。私は觸れてはならないものに觸れたやうなをののきを感じた。
「そのうち、僕一度は是非光ちやんの田舍に行つて見ますよ。」
 會話はとかく切れがちであつた。けれどもその沈默の中に、彼我を通じ前後を縫うてゐる一脈のものが流れてゐた。さうして私達は、何か自分達が永久に別れなければならぬのを豫感したかのやうに、私がやがて田舍に行くといふかりそめのわかれに就て、なごりを惜しむやうな心に自然となつてゐたのであつた。
「光ちやんが田舍に行つてしまふと僕ほんとに寂しくなる……」と、彼は言ひ出した。「それは僕にはせい子つていふ者があるけれど、あれの事を思ふ時に僕はいぢらしくかはいく、自分が力づけられ、そして世の中に對して奮鬪的な氣分になるけれど、慰められるつていふ點からいつたならば、僕は一番光ちやんに負ふ所が多かつたやうに思つてゐる……僕は、もしさういふ事が許されるならば、やつぱり光ちやんを愛してゐたのだと思ふ。そしてこの事はあなたも許してゐてくれたのだと思ふ……たゞ何事もはつきり口に出された事はなかつたけれども、そして、僕はたゞ光ちやんを愛する事は愛したけれども、光ちやんからも愛されやうなぞとは夢にも――あなたの結婚前は一寸そんな事を思つた事もあるけれど、それからは一度だつてそんな事を願ひはしなかつたし、また光ちやんから愛されてゐるとも思はなかつた。たゞ僕は、あなたを愛する事に滿足し、それを光ちやんが拒んでくれない事だけに十分滿足してゐられたんです……のみならず、僕は沼尾君をもあなた同樣に愛さうと思つて苦しんだ、併し僕は沼尾君を憎みこそしないけれど、そしてある程度まで愛してはゐるけれど、あなた同樣にといふことは到底できない、そしてそれは仕方のない事だとも思つてゐる……」

        十七

 あゝ! それは遂に來たのであるか。けれども彼のいふところに間違はなかつた。私は固くなつて、たゞ耳を傾けた。
「それは僕だつて隨分光ちやんを憎んだこともあるけれど、それは併し、愛するがために憎かつたのだつた……」
 彼はまた紡ぐやうにその言葉を續けようとする。
「これからだつて、もし……どうしたの、熱が出て來た?」
 彼は急に
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