て何事もなかつたやうに、泰然と片手を火鉢の上にかざし、片手を膝の上に置いて机に向つてゐるあなたの姿が、一瞬の間に私の空想を吹き拂つてしまひます。さうして隱れん坊をして、たつた一人置いてきぼりにされたやうな、寂しい遣瀬ない心をもつて、もはや自分自身にも紙屑のやうに見えるその手紙の上に、冷い私の瞳をそゝいで立ち盡すのでした。

        五

 けれども、そんな事は私達の初期の間でした。私はだんだん私の「あそび」をあなたの上には試みなくなつて來ました。あなたのいつも生眞面目でありたい要求――といふよりは、さうあらなければならぬあなたの生れつきをそつとして置くやうになつて來ました。あなたの心を私の心と共に躍らせようとするのは、鎌倉の大佛さんを搖り動さうとするのに同じだと、私はひそかに思ひました。それでも時々は我を忘れて、『早く、鬼が來たから逃げなさいよ!』と、大佛さんの肩を叩くやうな事をよくやりましたけれど。
 私達は大抵離ればなれな心で過しました。あなたとしてはまた私のしんみりしない心持を、常に寂しく思つて居られるのを私は知つてゐました。けれども、あなたが敢て私の性質に近寄らうとしなかつたやうに、或は企てゝも出來なかつたやうに、私も亦あなたの心に添ふやうに、自分を馴さうとはしませんでしたし、また不可能な事に思つてゐました。私は相變らず快活でした、併し、それはもはや内に向いてゞはなく、外に向いてゞした。私は向日葵のやうに無意識に無意識に、自分の心を惹くものゝ方へとその首をむけてゐるのでした。
 Aはその時分最も近く私達の側を歩いてゐました。あの人はあなたも御承知の通り、私の從姉に當る女の再縁した先の先妻の一人子でした。Aと私との間にさうした縁戚關係の生じたのは、私の十六の時で、たしか二つ違ですから、あの人が十八の時でした。併し私達はそれから四五年の間、一度も會つた事もなければ、そんな人がをるといふ事すらも忘れて過してゐました、Aの一家はその時分仙臺の方に暮してゐたのです。
 あなたと私とが相逢ふやうになつてから、一年ばかり後れてのある夏、私は突然一人の知らぬ青年の訪問をうけました。それがAだつたのです、ちようど病後だとはいつてましたが、青白い顏をして、鋭い眼の上の濃い眉毛が何となく陰鬱に見えました。繪をやるために上京したといつてましたが、あとで從姉からの手紙を見ると
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