象がなかつたなら、私はこんなに気違ひじみたことをしやしないんだと思つて来ると、あの人の心を惹きつけたさにするいろ/\な調子外れの行為が、却てあの人を悩ませたり、苦しませたりするのに気が引けて来て、すこうしづゝ静かな気分に恢復して行く。涙のあとを走るやうな冷たさが妙に佗びしい。
 ふとみると、捨てかけて行つた私の手を先刻から握つたまゝ、身じろきもしずに居るあの人の顔に、一つどころを見つめた眼が、一ぱいの涙を溜めて居る。襲ふやうに私の全身に走つた悲しさが、
「リユウリチカ!」と思はず呼び馴れた隆三の愛称を呼ばせて、その首に手を巻かせる。と、搖られてぽとりと落ちた露が私の頬を打つ。
「堪忍《かに》して! 堪忍して!」
 私は堪らなくなつて、心からおろ/\と泣けて来る。
「サアシヤがわるい、(さだ子)サアシヤがわるい。ね堪忍《かに》して、堪忍してえ!」
「サアシヤばかりが悪いんぢやないよ。僕も悪いんだ。僕が至らないんだ。僕がもつとすべてに於て強者だと、サアシヤにそんなヒステリーを起させないですむんだ。」
 それを聞くと、私はまた無上に済まなくなつて、自分で自分が責められて来る。泣いて/\、すつかり泣き切つたあとの洗はれたやうな胸を大切さうに抱へて、私はいつまでも/\泣いじやくりをして居るなんといふその時の私は、柔順なそして健気な心を持つた女であるのだらう!

「私、貴方に手紙が書きたくなつたの。旅行をなさらない?」
「あゝ、金を作つてくれ。」あの人は苦もなく笑戯《しょうだん》にしてしまつた。
 私は急に夢がさめたやうになつて、生々とした表情が、水を引くやうに去つて行くのを覚える。なんの興味もない、針の先ほどの刺激もない一日々々の中に、その身が浸つて居ることを思ふと、体も精神《こころ》もげんなりしてしまつて、何も彼もすつかり倦《だ》れきつてしまふ。さうして終日これといふ仕事もしずにぶら/\と過してしまふ。そこにだつて、決して面白いことも、気持の縮まるやうなこともないのだけれど、たゞ惰性になつて行つてゐる松枝さんの家から、思はず時を過したのに驚いて帰つてみると、意外にも早くあの人は帰つて居たりする。
「売れたかい?」あの人は妙に取すまして居る。
「えゝ。」私は自分で自分を瞞着《ごまか》すやうな、また祈るやうな悲しさを抱いて、何気なく平気で笑つてかう答へる。すると、「なんといふ図
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