そして俛いて後の減つた下駄を眺めてゐたが、これで暮まで間に合せて見ようと、何の苦痛もなく心をきめて、それがせめてもの夫の優しい仕打に對する返禮のやうな氣がした。
『まだかい?』
夫は忙しく戻つて來た。お里は何となく胸をとゞろかせた。
『どこに行つてらして?』と、きかうとしてきかなかつた。
『どうもお待遠さまでございます。』と、亭主は腰を低めて、下駄の齒と齒を喰ひ合せると、小僧に包紙をとらせて、手早く紐を捻つた。
それを包むとて風呂敷を擴げた時、お里は夫が默つて外套の袖の下から半襟を投げ出しはしないか知らと思つた。
『もう買はない?』と、夫は歩き出しながら言つた。
さやさやとその袖裏が搖れた時、『そら!』と手から手へ渡されるのではないかと思つた。けれどもそれは冷い空氣を避ける爲に、鼻と口とを押へたのであつた。
お里は少しく失望した。それでもどうやら夫の袂の中にあの半襟が潜んでゐるやうな氣がして、並んで歩くにも絶えずその邊が氣になつた。
『なんだかいやに默り込んでしまつたね。』と、かう言つて夫に顏を覘かれた時、お里はたゞ薄わらひした。
何事も知らぬやうに行き過ぎようとする夫の袖のかげから、お里は恐る恐る先刻の半襟店の飾窓に目をやつた。その時は反對の側の方に近く歩いてゐたのだけれど、視覺の記臆はあきらかにその幾筋もの模樣を識別した。
その一掛のところだけ明けられてあるか、それとも別なのが飾られてあるかと、まざまざそれが見えるやうな氣がしてゐたのも仇となつて、黒地の麻の葉はもとのとほりにその濃い彩で道行く人の目を引いてゐた。
『おい!』
『え?』
『どうしたの?』
『何が?』
『どうかしたのかい、默り込んでしまつたぢやないか。』
『ふゝ。』と、お里は寂しく苦笑して、『あなたねえ、さつき下駄屋からこつちへ何しにいらしたの?』
『さつき? インキの大瓶のがなかつたから別な店に行つて見たのさ。』
『さう。』
『どうして?』
『いゝえ、なぜでもないの。』
かう言つてお里はまた默り込んでしまつた。いつの間にか日はすつかり暮れきつてゐる。夜店をひろげる商人が、あちこちの場所に見えた。
『おい、何か食べて行かないのかい? さつきさう言つてたぢやないか。』
『さうね。』
氣のない返事をしたまゝ、お里はなほ緩く歩き續けた。少しづつ吹いて過ぎる風に、顏の脂肪氣をすつかり脱き取つてしまはれるやうな感じをしながら……
底本:「明治文學全集 82 明治女流文學集(二)」筑摩書房
1965(昭和40)年12月10日発行
入力:小林徹
校正:しず
1999年6月30日公開
2006年4月19日修正
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