。
『用がすんだらお茶でも飮ましやれ。』と、母親はかう言つて、思ひ出したやうに長煙管をとりあげた。
『は。』
宗三郎はまた店へ出て行つた。
『今度は是非君にも免状をとらせたいものだ。宗三郎にだつてさうさうはいくらなんでも氣の毒だから……』
お茶からふとこんな話になつて、二人がひそひそしてゐると、その時また二階から降りて來た宗三郎が、ふつといやな顏をして店に出て行つた。
別段何事もなく二三日經つたが、宗三郎はある日、出かけ先から豚の肉を竹の皮に包んで、懷の中に入れて來た。お芳は七輪を夕餉の席に運んで鍋をかける。脂肪の煮えたつにほひが久しぶりで家の中に漂つて、白い蒸氣が洋燈の傍をかすめて騰つた。
『お父さん、豚が煮えやしたから。』と、宗三郎は手づから皿に肉を盛つて老父《としより》にすゝめた。
『豚え! 今日は喰べまい。』
『さうですか。』
お芳はそつと宗三郎の顏を偸み見た。
盲目の老父には勿論、母親にも氣の付かないことだが、お芳はいろいろなことに氣を配つて、一人ではらはらしてゐた。
かりそめの咳一つでも、双方のさぐり合ふやうな心には大きな態度となつて見えた。宗三郎の顏色も、母親には何でもなく解釋させるやうにと苦心して、老人夫婦が小聲に話してゐた時には、お芳はきつとよそごとの口を入れた。魚の煮付一きれでも、都合の惡い時にはいゝ方を宗三郎の膳にのせた。
朝から宗三郎が家をあけた日がある。大抵枕許で行先を斷つて行くのが、その日に限つて何とも言ひ置いてなかつた。
『なあおせん、宗三郎は嬶の病氣が厭になつたんであるまいな。』
一日炬燵に蹲つてゐる老父は、夜になつても宗三郎の聲が聞えぬので、心配の顏をあげて通りがゝりの足音を止めた。小聲だつた。
『まさか……まさかさうでもありやすまいが……』
母親もそれは信じなかつた。宗三郎は程過ぎて何氣なく歸つて來た。出先から姉の家へ廻つて、そこで夕餉をすまして來たといふ。顏色も別段赤くなかつたので人々は安心した。
珍しく宗三郎は正宗の口を切つて膳の上に乘せた。その日は一日ものも言はなかつた。鐵の火鉢を傍に引きよせて、盃のひまにはぼかりぼかりと煙を吐いた。煙管を叩きつける音が烈しく、しかも絶間がなかつた。常から下戸のことゝて、すぐにもうまつ赤になつて、いつもにないことなので怪訝な顏をしてゐる清治を烈しく叱りつけた。そして御飯
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