にと爺はその上に蓑を着て、羽織をひつかけた宗三郎は、一把の赤い線香を袂に入れて先に立つた。
午後になつて産婆が來て、するべき手當をしてから檢温器をかけた。
『どうでせう、熱が大へんあるやうでせうか?』と、煙管をついて母親が膝を進ませると、
『さうですねえ、少うし高いのがあたり前ですけれど……三十八度五分ばかりありますよ。』と、産婆は首をかしげた。
あくる日になつて産婦はお乳が張るやうだと言ひ出した。母親は元來が小さい乳首を指先で揉み出すやうにしながら、自分から子供のやうに吸つてやつてそれを茶碗に吐き出した。はじめは薄い薄い水のやうだつたのが、暇ある毎にさうしてやつてゐるうちに、だんだんと白く濃いのが出て來るやうになつた。それを便所に捨てるのは勿體ないといつて、水を割つては臺所のながしに流した。
洋燈がついてから、あまり赤い顏をしてゐるやうだからと、母親はお芳と一所になつて、あつた筈の檢温器を箪笥の引出の中に搜した。
お芳が火鉢の前に坐つて編物の針を動してゐると、
『芳、幾度だや?』と、座敷から出て來て、目の前に檢温器をさし出した。水銀の細い騰り目を燈影に翳してびつくりしたやうに、
『三十九度二分!』と、お芳は言つた。
『三十九度二分!』と、母親は鸚鵡返す。
『三十九度二分!』と、炬燵にゐた老父が聰くも耳をたてた。
一重一重と絹を張つて行くやうに、二年ばかり前に全く明を失した老父は、若い頃に醫書をあさつて少しはその道に通じてゐた。病氣のことに就ては、毛程のことにも心配して騷ぐ方だつた。
帳場に出てゐる宗三郎が呼ばれた。三人が火鉢を圍んでひそひそ醫者の人選をやつてゐると、
『お母さん、お母さん。』と、屏風のかげから産婦が低い聲を出して母を呼んだ。
二
瀬戸といふ薄曇の眼鏡をかけた醫者の俥がとまるやうになつた。
産婆は看護婦から仕上げた人だつたので、毎日洗滌のために通つて來ては、熱度表に鉛筆を入れてその高く低くなるのに面をくもらした。
宵のうちに一寢入することにした母親に代つてお芳が枕許に雜誌を見てゐると、突然眠つてゐたと思つた産婦が、抑揚のない調子で何事か言ひ出した。
『え?』と、手をさし込んでゐた行火の上に雜誌を伏せて顏を覘くと、その顏を見かへしてまた同じやうなことを言つた。眼は人を見てゐるけれども、どこやらうつとりしてゐる。お芳は
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