心細さ、神を怨んでも見たが、今はもうそれは思ふまい! 盲目の父、かうして横つてつくづく見れば、今初めて白髮に驚かれる母、二人の妹、とそれらが重く重く自分の肩に頼りかゝつてゐた。何事も何事も自分を相談相手にしてゐた夫は、さぞ歳暮《くれ》の忙しさに手廻りかねてゐるであらう、店の者達の仕着せもまだ整へてなかつた。先刻藥罎を持つてはひつて來た清治の足袋から、親指の先が赤く覘いてゐた……あゝ、あゝ糞! 生きなければならぬ!……
 廣くもない家のことゝて、荷を下す車力の聲や、客の駈引、裏の倉に品を出しに驅けて行く足音や、それらが鋭くなつた頭に手に取るやうに響いた。見えない見えないと思つてゐた手袋の片方が、鼠に喰はれてぼろぼろになつて棚のかげから出て來たり、荷車が隣の小間物屋の店にかけて、轅が壞れて突き出されてあつたり、いろいろなことが病人の目に見えた。

       四

『お芳、御苦勞でもなあ、稻荷樣へお母さんの名代になつてお詣して來てくれろや、姉さんの命乞に……もしも快くなつたら旗を上げますつて願をかけて……』
 老人の頑愚を嗤ふにはお芳はなほ幼かつた。馬鹿馬鹿しい、そんな氣も起りながら、なほまた漠然として神といふものに望をかけて、一寸着物を更へて家を出た。宵に小ぶりの雪が解けかけて、家家の檐にしぶきがしてゐる。泥に塗れた雪が下駄の齒にきしんで足袋が濡れた。
『お母さんは、とても助るまい助るまいとひとりで青くなつてゐる。併し人間といふものがさうもたやすく死ねるものだらうか? 姉さんが死ぬ? あの姉さんが死ぬ?……』
 人が死んだといふことを聞いてもさう不思議には感じないが、さてその死といふものが今自分の家に來やうとはどうしても思ふ事ができない。
『死ぬもんか、姉さんが、あの姉さんが死ぬもんか!』
『併しもし死んだとする……山崎家に大切な姉さんが死んだとする……』かう思つてその時のことゝ、それから以後のことゝを想像して、お芳はぎよつとした。
『宗三郎兄さんは婿に來た人である。親身の娘といふ鎖が切れて、舅姑と婿との間には隙が出來ずには居らぬ。新しい嫁、それを外から持つて來て押しつけたとて、ますますその隙が大きくなつて行くにきまつてゐるのだ。世間によくある奴、もしも私でも押し付けられたならば……厭だ、厭だ、身ぶるひする程いやだ! その時には、その時こそ私こそ死んでしまふ、いやい
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