、さうでもないやうなんだわ。なんていつたらいいでせうね、威嚴が缺けてる――いやいやさうぢやない、十分あの人には威嚴だつて備つてゐると私思つてるんだから。だのに、なぜかもつともつとどうかしてなけりあならないやうな氣がして仕樣がないのよ。
それはそもそも私があの人を見はじめた時から、私の心はすつかりあの人の持つてゐるもので滿足してしまひながら、それでもなほどつかに、あるもの足らなさが潛んでゐたんです。
ね、一體それはなんだと思し召して?
だけど、それは良人にばかし懷く私の心持ぢやないんですの。世の中のありとあらゆる――少くも私の見たかぎりの男に、私はいつもその物足らなさを味はゝされてゐるわ。あ、この人だと一目で思はれるやうな男に、私はまだ一度だつて半度だつて出つくわしたことがないんだもの。恐らくこれから先だつて、そんなことはないだらうと私自分でも思つてゐるわ。その癖私は曾て一度、確にさういふ人に出逢つたことがあるやうにも思はれるほど、さういふ男がなければならないやうに信じられてならないのよ。
私は夢でもみてるんでせうか? とんでもない空想にたぶらかされてるんでせうか? ねえ、さうしたら私はいつどこで、そんな夢を見たんでせう? どうしてそんな空想に耽るやうになつたんでせう? いゝえ、それは物語や小説でみた男の顏でも威嚴でもないことはたしかだわ。
それがね、(と、よしのさんは種あかしをするまでの時間をなるべく長くしようとするやうに言葉を切つて)つい今のこと、たつた今のこと、ふつと思ひがけなくそれが思ひつけてよ。なんだと思ひなすつて? それはほんとに馬鹿馬鹿しいことなのよ。
まあ聞いて頂戴! それは犬なんですよ。犬の威嚴だつたのよ!
なんだかちんぷんかんなことを言つてるでせう、わたし。ね、それはかういふことなの。もう隨分前のことだわ、いつか私が、戸山が原……ぢやなかつたかしら、だけどなんでも原にはちがひなかつたと思ふわ、その原をどうかして私が通りかゝつた時のことなの。
一面に枯芝を纏うたほのかな起伏が、波を打つて續いた野のはてに、それはそれは大きくまつ赤な入日が、まるで血のやうに燃えて輝いてゐました。夕日を浴びた樹立は、尖つたその頂上を空に向けて靜止してゐました。だのにそこらをうろうろと散歩してる人間どもが、その時どんなに見すぼらしく貧弱に私の目に見えたことで
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