たやうに頭から離れないで――今から考へるとをかしいやうだけれど、あの頃はAがわるかつた時分でせう、そして私は元氣でぴんぴんしてゐたのですから、私はすつかり自分が遺されるものだとばかり思ひ込んでゐたのでした――もう既にその時が來たのでもあるかのやうに、あなたの哀痛と私のそれとが一所くたになつて、又その癖百合さんがかはいさうだかはいさうだと始終胸の中で呟きながら、闇の夜の俥で誰にも顏を見られないのを幸ひ、ひた流しに涙を流しながら運ばれてゆきました。一生の中で……と、もう言つても差支ないでせう、あんなに泣いたのは、お父さんお母さんのなくなつた時とあの時と[#「あの時と」は底本では「あの。時と」]だけで、あの時はお父さんお母さんの時よりも、もつともつと泣いた位に私は記臆してゐます。それはそれだけ私達が大人になつて、いろいろ憂きくるしみを實際に知つて來たからなのでせう。[#「でせう。」は底本では「でせう、」]
 かうしてあの暗い野道を、車夫達は掛聲から掛聲を送りながら、あの暗い險しい寂しい火葬場のある山の下に着きました。私達はそこからみな徒歩《かち》になつて、おぼろな弓張提燈の導くのをたよりに、足許に氣をとられながら、揉まれ揉まれてのぼつて行く棺のあとに續きました。あゝ何といふはつきりした記臆でせう、あの寂しい夜の光景は!
 太々しい怖い顏の隱坊から火室の鍵を受け取つて、それでもあなたはなほ念を入れて改めるやうに、その實は離れ難なく、弓張提燈を振り翳して、あの氣味のわるい火室のぐるりを一週しました。現在その手で口火をつけて、現在その手で夫の遺骸を燒くその焔の音が、煉瓦に圍まれた不思議な世界の中に、耳を欹てるまでもなくはつきりと聞えてゐました。生と死との歴然とした區別が、煉瓦一重の中と外とにありました。死の方は冷く、生の方は暗かつたのです。鐵の扉を固く閉されて、中の火影が糸よりも細くちらちらと洩れてゐました――何と思つたかあなたはぴたりと扉の前に立ちどまつて、既に下された錠に手を掛けてそれをゆすりました――『大丈夫ですよ奥樣、鍵はこのとほりこちらで預りましたんですから、明日お骨上げにおいでになるまでは誰だつて開ける事が出來ません、それにこの人が一晩寢ないで番をするんですから……』と、こゝまでもついて來た葬儀屋の男が、時に心付といふ意味をふくめて言つた時、あなたがどんな氣がなすつたか私はようく知つてゐます。それだのに人々はもう先刻から外に出てあなたを待つてゐました。さあと促されて、一歩片足があの火屋の閾の外に出た時、『わつ!』といつてあなたは突然體を二つに折つてしまひました。たうとうかなしみの極で堤が切れてしまつたのでしたね。その刹那あなたの程近にゐた私は、いきなり自分も共にわつとなつて、あなたを抱きしめたいと思ひました。けれどもやつぱりそれを堪へました。あなたをしてそこで思ふさま泣かせる事の出來ないのを[#「出來ないのを」は底本では「出來なないのを」]口惜しくかはいさうに思ひながら、私はたゞ默つて、冷く瀧のやうに流れるものを拭ひもあへずに、あなたの袂の先を掴んで思ふさまそれを握りしめました。その袂を強く引く事すらも敢てしなかつた私を、ハンカチでぴつたりと顏を押へてゐたあなたは恐らく今まで御存じがなかつたでせう。あなたが顏をあげた時には、みんながびつくりしてこちらを振り向いてゐましたので、佐瀬家の親戚としては全く存在を認められない位の私が、こんなにも泣いてゐるといふ事を恥かしく隱すやうな氣持で下を向いてゐましたから。その時は私の持つて出たハンケチと鼻紙とは、殆どもう用をなさなくなつてゐました。それで私は暗いところに行くと、しきりに顏を手で拂ひ指で拭ひしてゐました。

        四

 あなたに取つてこれはよしない事を言ひ出したのかも知れませんね、けれども何も彼も私に取つてはお名殘であるといふ事によつてどうか許して下さい。毎日かうして少しづつ少しづつなけなしの精力を盡して書き續けたのも、遺して行く人のために殘る思がそれをさせるのです。愚にも夫に先だたれるものとばかり思つてゐた私が、二年とたゝぬ間に思ひもしなかつたこんな病氣に罹つて、今はその命も消えゆく燈火のしづかなゆらぎをしてゐるとは、今更に寂しい微笑がこの色褪せた唇にのぼります。かはいさうなものは人間ですね、なんにも知らないで、ほんとになんにも知らないであくせくと……けれども、今はそれでいゝのだといふ事がやうやくわかりかけました。自分の運命を知るやうになつてからはもうおしまひです、それを確實に知るやうになつては。今の私ですらも、まだまだどうかすると萬一を思ふ心があればこそ、かうして人間のお仲間入をしてゐる譯なのでせうが、死ぬ事を知るのではなくて、死そのものを――それこそあの捕捉すべからざるものを――しかと知り得る時には、人はもうその死に融和し、合體し、いやいや既に「死」そのものとなつてゐます。「死す」といふ事は何といふ簡明な、それでいて[#「それでいて」は底本では「それでて」]動かす事の出來ない、かはりを用ゐる事の出來ない力でせう、間一髪を入れない、迅速な、明確な、おごそかな、極めて弱くて極めて強い力ではありませんか……「死す。」
 死といふ事を無暗に問題にすると思はないで下さい、それを考へないではゐられないのだと思つて下さい、自分の爲にも亦あの人のためにも。私自身についてはどうやら解決がついたと思つてゐます、それが間違つてゐるか間違つてゐないかは別問題として。たゞ私の亡いあとのあの人のために、私は今さまざまに思ひ量つてゐます。恐らくこれは餘計な事でせう、來年の事を言つてすら鬼が笑ふと云ふのに、まして死にゆく者が生きて殘る人の生活に干渉するなんて、ほんとにいらざるおせつかいです。ですけれども、さう思ひながらやつぱりいろんな事を考へます。自分でもそれが空想で、決して事實はそんな風になつてゆくものではないといふ事を百も承知しながら。ではそれは私の遊なのでせうか、いえいえ決してさうでは[#「さうでは」は底本では「さううでは」]ありません。たゞ私は、せめてはあの人の上にかくあつてほしいと思ふ事を思ふばかりなのです。それを願ひはするけれども、神樣にだつて運命にだつてそれを請求しようとはさらさら思ひません。瞑するものはたゞ目をつぶりさへすればそれでいゝではないか、その默從の外に私の爲すべきことはない筈と、頭ではよく心得てゐますもの。
 けれども百合さん、その時が來るまでは、やつぱり哀れな人間の本性として、とやかくくだらぬ思ひやりや思ひ過しをするものだと見えます。氣にしないといひながら氣になるのですね、何だかあの人の姿が寂しさうです。春になつたらどうしよう、夏が來たらどうするだらう、秋が來たら、冬になつたらと、些細な日常生活の事まで、自分がない後の事を氣にする私を笑はないで下さい。親が無くても子は育つといふ譬がある位ですのに、殊に大の男一人を何と心得てゐるのだと人は笑ふかも知れません、けれども百合さん、どうかあなたゞけはそれを笑はないで下さいな。
 つくづく省れば、私はあの人に取つて決してよい妻ではありませんでした[#「ありませんでした」は底本では「ありまんでした」]。それにも拘らずあの人は當分寂しくなるでせう。幸か不幸か私達の間は一人の子供すらもなかつたので、あの人は全くのひとりぼつちとなります。自分が愛された事を信じてやすらかに眠つてゆく事の出來る私は、死ぬといふ事が自分一人易きにつくやうで、何だかそれが心苦しくて仕方がありません。せめては私の亡い方が、あの人の生活に取つて、藝術にとつて、幸福であつてくれるやうに! さうでなかつたら、ではどうかよりよき者があの人のために與へられるやうに! 私は少しも無理な心持なしにそれを願つてゐます。そしてもしも死後の生活に於てこの世の消息を知り得る事が出來たならば、あの人がどんなに他の女を愛しようとも、それがあの人を慰め、また幸福にするのならば、私は喜んでその二人のために祈るでせう。
 爭も、嫉妬も、憎しみも、さうした陰なる醜い感情は、命に先立つてだんだん私の肉體をはなれつゝあります。すべてが私を見はなして行く……たゞどうかこの愛だけは、最後までも、願はくばその骸にまでも踏みとゞまつてくれ!
 寂しい世ではありました。私に取つてそれは廿六年間、樂しい事も嬉しい事もすべてつきくるめて人世は寂しかつたと思ひます。私達は又貧しかつた。けれども燃えて盡きる事のない愛の焔でお互が温め合ひました。ある時は濕り、ある時は突風の危機に遇つて、僅に消え殘つた事もありますけれど、そしてそれを私達は最初ごくわづかしか[#「わづかしか」は底本では「わつかしか」]持つてゐませんでしたけれど、いろいろな艱難や寂しい目に遇ふ度にだんだん、だんだん[#「だんだん、だんだん」は底本では「だん、だんだんだん」]焔は強められて行きました。お互に援けあひ暖めあはないで、どうしてこのなやみの多い世に滿足して生きる事が出來ませう、それだのに今あの人はその伴侶を失はうとしてゐます。

        五

 あなたの籍も、たうとう籾山にかへりましたのですつてね、勿論弘一さんを喪つてからの佐瀬家にあなたの執着はない筈ですけれど、夫の姓を捨てる事の苦しさ寂しさはどんなであつたらうかとお察してゐます。あの家は決して操正しい寡婦のとゞまるに適當した家ではなかつたけれど、體は實家に寄せながらも、いつまでも佐瀬の姓をあなたは名乗るつもりでゐらしたのにね。あなたの行末を思ふ伯母さん從兄《にい》さんの深慮は、既にあの不幸當時からその事を考へてゐらしたのでせう。いつぞや伯母さんが弘一さんのお墓の前でかう仰しやいました。『彼女《あれ》がね、この石碑をたてる時に、どうしても自分の名前も一所に刻むのだと言ひ張つて聽かなかつたんですよ。ですけれども純太郎が、それは斷じていけないつてね、許しませんでしたけどもね……』伯母さんも目にいつぱい涙を溜めてゐらしたつけ。
 思ひのまゝにならぬのが世の中だとは言ひながら、よしない再縁のすゝめに困じ果てゝ、獨立の道をひそかに捜してゐるといつかのあなたのお手紙にありましたが、ほんとにあなたの運命もどうなるのでせう、まだ達者で元氣なお母さんと立派な兄さんとを持ちながら、あなたもやつぱり寂しい人ですねえ。到底自分には忘れる事の出來ぬ亡き人の思を抱いて、再び人に嫁がうとは思はないと仰しやつてゐるあなたの心を私は嬉しく思つてゐます。けれどもそれは何といふ悲しく寂しい生涯でせう、あなたがその境涯に堪へ得るかどうかなどゝいふ事は決して問題にしないでも、私はあなたの再婚に就いて考へてみたいやうな氣がしてゐます。
 もしもねえ百合さん、あなたが大事に大事に胸に抱いてゐるその思に、少しも手を加へる事をしないでも、そしてその爲にあなたの良心が責めらるゝ事なしに出來る結婚があるとしたら、それに就てはどうお思ひになりますか。勿論さうした場合は、やはり同じやうな心の状態にある人との間に於てのみ可能な事です……明敏なあなたは[#「あなたは」は底本では「あたは」]もう既に私が何を言ひたいと思つてゐるのかお察しになつたでせうね、どうか惡く思はないで下さいな、そして願はくば死者の口に耳を寄せてものを聞かうとするやうな注意をもつてこの事を考へて下さいませんか。はじめからそれが無理な事だとはわかつてゐても、無理は無理かも知れませんけれど、しかしそれは理不盡な事でも、また決して不自然な事でもないだらうと私には思はれるのです。運命の仕事には決して不自然といふ事がありません。たとへ不自然に見える事があつたとしても、よくよく辿つてみれば、その不自然らしく見えるのが却つて最も自然な状態である場合がよくあります。
 私は今運命といふ言葉を使ひました。さうした考が、恰も暗示のやうに私の腦裡を過ぎていつたものですから……けれどもこれを具體的な話にして見た時に、何といふそれは突飛な思ひつきでせう、もしも伯母さんがこんなことをお聞きに
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