右に別れた。
「瀬川さん、××新聞ですね?」と、二三間行つてから、念を押すやうに、大越さんは振り返つて言つた。
「えゝさう、三面の下の方。」と、私はなほもでたらめに答へる。
大越さんの恐怖と心配に滿ちた顏を思ひ浮べると、少し罪なやうな氣もしたけれど、またそれを笑にかへす時のことを思ふと、私は更に元氣づいて、自然と歪《ゆが》んで來る口もとを袖で押へながら、勢こんでばたばたと診察室の方へ驅けて行つた。
ちやうど正午を少し過ぎた時分で、午前中の外來の患者は大抵歸つてしまつてゐた。藥局の前にはちらほらと藥を待つてる人が見えたけれど、廣い廊下は人影が稀になつて、そちこちの扉から出て來る白い上着の醫員や看護婦のみが、何か忙しげにどこへか消えて行く。
いつも今時分は内科も隙《ひま》なのを知つてゐるので、忙しい院長を職務外の事に向けさせるのに、ちやうどいい折だと私はひそかに思つた。私が扉をあける、すると大きな診察机に肘《ひぢ》をついて、ある患者の温度表を見ながら、一人の醫員に何事かを獨逸語《ドイツご》まじりに話してゐる院長が、ちらとこつちを振り返る。さうしてそこに「キューピーのマザア」が(私があのおどけもののキューピーを部屋に飾つて置く所から、院長はいつもたはむれに私をかう呼んだ。)何事かを抑《お》し堪《こら》へたやうな顏をして入つて來るのを認めるであらう!……
私は大越さんをかつぐのにうまく成功したので、すつかり調子に乘つてしまつてゐた。さうして興味に燃えながら、微笑を顏中に漂はせて、勢よく扉の把手《とつて》に手をかけてそれを引いた。
その瞬間――私の體が入口に現はれ、私の眼が室の内部を見た時に、私は思はずそこにつつ立つたままになつてしまつた。今まで何かしらいつぱいに張りつめてゐた氣が、いきなりそこでわけもなく拔かれてしまつたのだつた。
診察室の中には、私が待ち設けたやうに院長の姿は見えなかつた。また獨逸語の發音もなかつた。ただ不思議に緊張した無言の空氣があつた。……その氣分が不意に私の面を打つたので、自分の眼で見た事を私が了解するまでには餘程の手間が取れた。
かなり廣く取つてある部屋の向の窓の下に、一つの寢臺がいつも横へられてあつた。今その寢臺のまはりに一人の醫員と二人の看護婦と、それから印半纏《しるしばんてん》を着た長裾の男とが集つてゐた。看護婦のうちの一人は津
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