っとなって居住いを直すと、騒がずに気配を窺った。
だがやはり音はない。息遣いも剣気も、刺客の迫って来たらしい気配は何一つきこえないのである。
「大無! 大無! また消えおったぞ」
「はっ。只今! 只今! 只今新らしいお灯り持ちまするで厶ります。――重ね重ね奇態で厶りまするな」
「ちと腑《ふ》におちぬ。油壷予に見せい」
覗《のぞ》いた対馬守の面《おもて》は、まもなく明るい笑顔に変った。消えた理由も、燃えない仔細も忽《たちま》ちすべての謎が解けたからである。
「粗忽者《そこつもの》共よ喃。みい。油ではないまるで水じゃ。納戸《なんど》の者共が粗相《そそう》致して水を差したであろう。取り替えさせい」
「いかさま、油と水とを間違えでもしたげに厶ります。不調法、恐れ入りました。すぐさま取替えまするで厶ります」
「しかし乍ら――」
「はっ」
「叱るでないぞ。いずれも近頃は気が張り切っている様子じゃ。僅かな粗相をも深く耻《は》じて割腹する者が出ぬとも限らぬからな。よいか。決して強く咎《とが》めるでないぞ」
「はっ。心得まして厶ります。御諚《ごじょう》伝えましたらいずれも感泣《かんきゅう》致しますることで厶りましょう。取替えまする間、おろうそくを持ちまするで厶ります」
「うむ……」
大きくうむと言い乍ら対馬守は、突然何か胸のうちがすうと開けたように感じて、知らぬまにじわりと雫《しずく》が目がしらに湧き上った。
安心! ――いや安心ではない。不断に武装をつづけて、多端な政務に張り切っていた心が、ふと家臣を労《いたわ》ってやったことから、計らずも人の心に立ちかえって思わぬまに湧き上った涙だったに違いないのである。
銀台に輝かしく輝いているおろうそくが、そのまに文机《ふづくえ》の左右に並べられた。
静かに端座して再び書見に向おうとしたとき、――不意だった。事なし、と思われたお廊下先に、突然|慌《あわ》ただしい足音が伝わると、油を取替えにいった茶坊主大無がうろたえ乍らそこに膝《ひざ》を折って言った。
「御油断なりませぬぞ! 殿! ゆめ御油断はなりませぬぞ!」
「来おったか」
「はっ。怪しの影をお庭先で認めました由《よし》にて宿居《とのい》の方々只今追うて参りまして厶ります!」
さっと立ち上ると、だがお広縁先まで出ていったその足取りは実に静かだった。
同時に庭先の向うで、バタバタと駈け違う足音が伝わった。と思われた刹那《せつな》――。
「お見のがし下されませ! お許しなされませ! 後生《ごしょう》で厶ります。お見のがし下されませ!」
必死に叫んだ声は女! ――まさしく女の声である。
対馬守の身体は、思わず御縁端《ごえんばた》から暗い庭先へ泳ぎ出した。
同時のようにそこへ引っ立てられて来た姿は、女ばかりだと思われたのに、若侍《わかざむらい》らしい者も一緒の二人だった。
「御、御座ります。ここに御灯りが厶ります」
「……※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
差し出した紙燭《ししょく》の光りでちらりとその二人を見眺めた対馬守の声は、おどろきと意外に躍《おど》って飛んだ。
「よっ。そち達は、その方共は、道弥とお登代じゃな!」
見られまいとして懸命に面を伏せていた二人は、まさしく侍女のお登代と、そうして誰よりも信任の厚かった近侍《きんじ》の道弥だったのである。
不義!
いや恋! ――この頃中《ごろじゅう》から、ちらりほらりと入れるともなく耳に入れている二人のその恋の噂を思い出して、若く美しい者同士の当然な成行に、対馬守の口辺《こうへん》には思わずもふいっと心よい微笑がほころびた。
だがそれは刹那の微笑だった。情に負けずに、不断に張り切っていなければならぬ為政者《いせいしゃ》としての冷厳な心を取り返して、荒々しく叱りつけた。
「不埒者《ふらちもの》たちめがっ。引っ立てい!」
「いえあの、そのような弄《なぐさ》み心からでは厶りませぬ! 二人とも、……二人ともに……」
必死に道弥が言いわけしようとしたのを、
「聞きとうない! 言いわけ聞く耳も持たぬ! みなの者をみい! 夜の目も眠らず予の身を思うておるのに、呑気《のんき》らしゅう不義の戯《たわむ》れに遊びほうけておるとは何のことか! 見苦しい姿見とうもない! 早々に両名共追放せい!」
ややもすれば湧き立とうとする人の情と人の心を、荒々しい言葉で抑《おさ》えつけるように手きびしく叱っておくと、傍《かたわ》らを顧《かえり》みて対馬守はふいっと言った。
「そろそろその時刻じゃ。微行《しのび》の用意せい」
――九重《ここのえ》の筑紫の真綿軽く入れた風よけの目深頭巾《まぶかずきん》にすっぽり面《おもて》をつつむと、やがて対馬守は何ごともなかったように、静かな深夜の街へ出ていった。
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