「夜明けのせいか、めっきり冷えが増して参ったように厶ります。お微行《しのび》のあとのお疲れも厶りましょうゆえ、御寝《ぎょしん》遊ばしましてはいかがで厶ります」
「…………」
「な! 殿!」
「…………」
「殿!」
「…………」
「きこえませぬか。殿! もう夜あけに間も厶りませぬ。暫しの間なりとお横におなり遊ばしましてはいかがで厶ります」
「…………」
「な! 殿!」
「…………」
「殿!」
 そのとき、死像のように声のなかった対馬守が、ふいっと面をあげると突然言った。
「あすは十五日であったな」
「はっ。月次総登城の御当日で厶ります。それゆえ暫しの間なりとも御寝遊ばしましてはと、先程から申し上げているので厶ります。いかがで厶ります」
「それよりも予の目のうちには、あれがちらついておる。……屋台店の寂《さび》れがちらついておる……。たしかに十五日じゃな」
「相違厶りませぬ」
「しかと間違いあるまいな」
「お諄《くど》う厶ります」
「諄うのうてどうしょうぞ。月次総登城とあらば、諸侯に対馬の動かぬ決心告げるに丁度《ちょうど》よい都合じゃ――硯《すずり》を持てい」
「はっ?」
「紙料《しりょう》持参せいと申しているのじゃ」
 いぶかり乍ら格之進が取り揃えた奉書を手にすると、対馬守はきりっと唇を決断そのもののように引き締めて、さらさらと書きしたためた。
「ポルトガル国トノ交易通商ハ、最早ヤ断乎トシテ之ヲ貫ク以外ニ途ハナシ。早々ニ条約締結ノ運ビ致スヨウ、諸事抜リナク御手配《おんてはい》可然候《しかるべくそうろう》。人ノ命ニ明日ハナシ。ソノ心シテ諸準備御急ギ召サルベク安藤対馬シカト命ジ置キ候」
 筆をおくと凛として言った。
「予が遺言に――、いや、夜がいか程|更《ふ》けておろうと火急の用じゃ。すぐさま外国奉行の役宅へ持参させい」
「ではもうやはり――」
「聞くがまではない。ちらつく……、ちらつく、予の目には只あれがちらつくばかりじゃ……」
 声をおとして、他を顧《かえり》みるように言うと、対馬守は静かにきいた。
「湯浴の支度は整《ととの》うておるであろうな」
「おりまするで厶ります」
 ――入念な入浴だった。
 そうして夜が白々と明けかかった。紊《みだ》れも見えぬ足取りでお湯殿から帰って来ると、対馬守は愈々《いよいよ》静かに言った。
「香を焚《た》け」
 いかにも落ちついた声なの
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