としていたが、
「わるかったのね。あなたばかりひとりぽっちにしておいて、それがお寂《さみ》しかったから、そんなに悲しそうにしておいでなのでしょう。――こんどはきっと……。こうしてさしあげたらいいでしょう」
 ささやくように言い乍ら近寄って、突然、軟らかく平七の手を握りしめたかと思うと、リンリンと簪を鳴らし乍ら、逃げるように門の中へ駈けこんでいった。
 二階へあがって、見送ってでもいるらしく、顔のみえない窓から、同じ簪の音がかすかにリンリンときこえた。

         三

「平七。――これよ、平七平七」
「…………」
「毎日毎日耳の遠い奴じゃな。平七はどこじゃ。平《へい》はおらんか!」
 あくる日の夕方、また有朋が、とげとげしい声で奥から呼び立てた。
 庭へ廻れというだろうと思って待っていたのに、しかし、どうしたことか、きょうは、その庭の向うから、下駄の音が近づいて来たかと思うと、声と同じように尖《とが》った顔がひょっこりとのぞいた。
「なんじゃ。また靴を磨いておるのか」
 きのうと同じように平七は、裏木戸のそばの馬小屋の前に蹲《うずく》まって、有朋が自慢の長靴をせっせと磨いていたところだった。
 それが機嫌をよくしたとみえて、有朋のとげとげしく長い細い顔が、珍らしく軟らいだ。
「おまえ、どうかすると馬鹿ではないかと思うときがあるが、使いようによっては、なかなか律義《りちぎ》もんじゃな。わしが大切にしている靴だから、大切に磨かずばなるまいという心掛けが、育ちに似合わずなかなか殊勝《しゅしょう》じゃ。もう少しはきはきしておったら、出世出来んもんでもないが……」
「…………」
 クスクスと平七が突然笑った。
「なにがおかしい! ――どこがおかしいんじゃ」
「わたしはそんなつもりで、磨いていたわけではないんですが」
「ではどんなつもりで磨いたというんじゃ」
「こうやってぼんやり手を動かしておると、心持が馬鹿になれますから、それで磨いていたんですが」
「またそういうことを言う! そういうことを言うから、なんとか出世の道を開いてやろうと思っても、する気になれんのじゃ。馬鹿になる稽古《けいこ》をするというならそれでもいいが……」
 ぽかりと穴があいたように、突然そのときどうしたことか、平七のもたれかかっていた裏木戸が、ギイとひとりでに開《あ》いた。
 すぐにそこから小径《こみち》がつづいて、あたりいちめんに生《お》い繁《しげ》っているすすきの穂の先を、あるかないかの風が、しずかな波をつくり乍ら渡っていった。
 きのうに変って、カラリと晴れたせいなのである。そよぎ渡るその風の間に、このあたり向島《むこうじま》の秋らしい秋の静寂《せいじゃく》が初めて宿って、落ちかかった夕陽のわびしい影が、かすかな縞《しま》をつくり乍ら、すすきの波の上を流れていった。
「平七」
「へい」
「…………」
「…………」
「秋だな」
「秋でござりますな」
 なんというわけもなかった。有朋も有朋ということを忘れて、平七も平七ということを忘れて、いつともなしにふたりは肩を並べ乍ら、すすきの径の中に出ていたのである。――足が動いているのではなかった。こころが歩いているというのが本当だった。
 どこへ、というわけもなく、ふたりは肩を並べ乍ら、土手の方へあがっていった。
「おまえはどちらへ行くつもりじゃ」
「どちらでもいいですが……」
「わしもどちらでもいいが……」
 なんということもなかった。片身《かたみ》違《ちが》いに足を動かしているうちに、いつのまにか平七はふらふらと、ゆうべのあの石原町の小料理屋の方へ歩いていった。
 有朋もまた、いつのまにかそこへ行く約束をして了ったような顔をし乍ら、ふらふらと平七のあとからついていった。
 うすい灯のいろが、ゆうべのように川岸《かし》の夕ぐれの中に滲《にじ》んで、客もないのか、打ち水に濡れた石のいろが、格別にきょうはわびしかった。
「あっ。閣下じゃ。山県の御前様《ごぜんさま》じゃ。――どうぞこちらへ。さあどうぞ! お雪、お雪……。お雪はどこだえ!」
 和服の着流しではあったが、尖ったその顔で有朋と気がついたのである。帳場の奥から眉《まゆ》の青ずんだ女将《おかみ》が、うろたえて出て来ると、慌《あわ》てふためき乍ら、ゆうべのあの二階の部屋へ導いていった。
「どうぞ。どうぞ。さあどうぞこちらへ。こんなむさくるしいところへわざわざお越し下さいましてなんと申してよいやら。只今女たちをご挨拶《あいさつ》に伺《うかが》わせますから。さあどうぞ!――もし、お雪さん! お座布団《ざぶとん》だよ! 上等のお座布団はどこだえ!」
「…………」
「お雪さん! お雪! お雪! ――お雪はどこだえ!」
 浅墓《あさはか》な声で呼び立て乍ら、女将は、ひとりで
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