上《かみ》、この主水之介の三河ながらの手の内試し、御所望ならんと存じ、御心ゆくばかり――」
「堪能させおったか」
「御意!」
「はははははは。いよいよもってにっくい主水之介じゃ。おもしろい。――おもしろい。いやのう。さきほどのそちの申し開き、胸にこたえてよくわかったが、心冴えぬは紋の不始末じゃ。女の表裏二心は大賢をも苦しむると申すが、尤もじゃのう。ふと、三河ながら、三河ながらと吹きおったそちの手の内ためしたら癇癪《かんしゃく》も晴れようと気づき、豊後《ぶんご》をはじめこの者共ひきつれて涼みにまいったのじゃ。よくやりおったな! 主水之介! 天ッ晴れじゃ! 見ごとじゃ! わしの胸の内、見ごとに晴れたわい。――主水之介!」
「は!」
「紋には暇《いとま》とらすぞよ」
「ははッ」
「まったこれなる人非人――」
 不興げに治右衛門の上を走ったお目が、うしろへ流れました。
「豊後! 豊後!」
「ははッ」
 するすると出てうずくまったのは、大目付溝口豊後その人でした。
「そのうじ虫に活を入れい!」
「はッ」
 エイッと、豊後に背を打たれて正気づいた治右衛門、キョトキョトまわりを見まわしましたが、前に立ったのが将軍家と知ると、あッとばかりに、顔をふせて、砂利へくい入るようにはいつくばいました。
「よくもこの綱吉に一代の恥かかせおったな。裁きは豊後に申しつくる。なお、町人どもをどのように苦しめているやも知れぬ。仮借《かしゃく》のう糾明《きゅうめい》せい。――目障りじゃ。早うひけいッ」
 鶴の一声、とびかかった御近習の刀の下げ緒《お》でくくしあげられた腰本治右衛門、まことあわれ千万なその姿は、おりからほのかにさしはじめた月明りの中を、一味ともども伝馬町の大牢の方へひかれて行きました。
「笑止な奴よのう! ――主水之介!」
「はッ」
「君子の謬《あやまち》は天下万民これを見る。よくぞ紋めの膝で諌言《かんげん》いたしてくれた。綱吉、礼をいうぞ」
 光風霽月《こうふうせいげつ》、さきほどまでのことには何のこだわりもない明るいお声です。見上げる退屈男の目に光るものがわきました。
「上《かみ》!」
「綱吉の仕置き、これでよいか」
「なにをか、なにをか――」
 このお裁きいただきたさに、決死の登城をしたのです。天下万民のため命をすててと、こめた願いは通ったのです。主水之介の声はぐっと感激につまりました。
「――なにをか主水之介、申しましょうや。ただただ……」
「胸がすいたか」
「ははッ。聖人は色を以て賢に替えず。天っ晴れ神君御血筋の御名君! この君戴いて天下泰平、諸民安堵! 御名君! 御名君! 主水之介のよろこびは四民のよろこび、何とも申し上げようもござりませぬ」
「いかん! いかん! そちの御名君々々々が出るとあとがこわいぞ、のう、豊後!」
「御意!」
「また冷汗かかされぬうちに引揚げた方が賢明じゃ。――よい夜気《やき》のう。今宵は快うやすまれるぞ。豊後! 馬!」
「はッ」
 最後のさしまねいた手に応じて、橋の向うからかけよって来た御乗馬にゆらりとまたがられると、
「主水之介、時おりはまた小言を堪能させにまいれよ。さらばじゃ」
「主水之介どの今宵のお手柄、祝着《しゅうじゃく》に存ずる。挨拶はいずれ後日――」
 はれやかな会釈のこして溝口豊後守も騎乗。カバ、カバ、こころよい蹄の音ひびかせて将軍家の一行は千代田城の奥へ、――見送る中から、くくと男の泣声がわきました。
 十五郎です。
 うれしかったのです。とるに足らないと思っていた自分の妹風情の恋の倖《しあわ》せが、天下将軍じきじきのお裁きで、執拗《しつよう》な邪悪の手から救われたことのよろこびが、頑丈なその胸をくい破ったのです。
「うれしいか、十五郎」
 将軍家をお見送りおわると、主水之介の目はこのもしげに十五郎をうながしました。
「そのよろこび、早う妹へ伝えてつかわせ。われらもともに引上げようぞ。――京弥。お胸前!」
「はッ」
 陸尺共がおきすてて逃げたお胸前を捧げて京弥が先頭に――。
 ぴたり、よりそって菊路。それから退屈男、十五郎――。
 月が出た。人の心を明るくさわやかにそそるように、屋並《やなみ》の向うからさしのぼった月の光の中を明るい影が動いて行きました。



底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:大野晋
2001年12月18日公開
2002年1月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このフ
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