変哲《へんてつ》もない只の犬だが、八百万石御寵愛の犬とあってはこれも御威光広大、位も五位と見えて、尾の長い五位さまがいとも心得顔に、将軍家お褥《しとね》のかたわらへちょこなんと坐ったところへ、荒々しいたたみの音がつづいて、お犬公方綱吉公のけわしい顔が現れました。
同時です。
「不所存者めがッ。どの顔さげて参った!」
はぜるような雷声《かみなりごえ》が、主水之介の頭上へ落ちかかりました。
よくよく御癇癖《ごかんぺき》が募《つの》っているとみえるのです。それっきり、褥《しとね》を取ろうともせずに立ちはだかったまま、じりじりとしていられたが、意外なところへさらに大きな飛び雷が落ちました。
「豊後も何じゃ! うつけ者めがッ」
「はッ」
「は、ではない! このざまは何のことじゃ! なぜ、なぜ、――なぜ主水之介を生かして連れおった!」
思いもよらぬ御諚《ごじょう》です。
主水之介は、はッとなりました。おそらく首にして連れいとの御内命があったに相違ない。あったればこそ、生かして連れて来たことがお叱りの種にもなったのです。この雲行から察すると、治右の手がすでに将軍家にまでも伸びているのは言うまでもないこと、一言半句の失言があっても、御気色《みけしき》は愈々|険悪《けんあく》、恐るべき御上意の下るのは知れ切ったことでした。
しかし主水之介は、森々沈着、神色また自若、しいんと声を含んで氷のごとく冷たく平伏したままでした。
その頭上へ、立ちはだかったままの将軍家の尖《と》げ尖げしい声がふたたび落ちかかりました。
「憎い! 憎い! 憎いと申すも憎い奴じゃ! 不埓者めがッ。顔あげい!」
「………」
「なぜあげぬ! 顔あげてみい!」
「………」
「あげぬな! 不届者めがッ。それにて直参旗本の職分立つと思うか! たわけ者めがッ。治右よりその方の不埓、逐一きいたぞ。お紋を何と心得ておる! 言うも憎い奴じゃ! 顔あげてみい!」
しかし主水之介は、ことさらに押し黙って、しんしんと静かに平伏したままでした。賢明な策です。立ちはだかったままで、お褥も取らないほどに御癇癖が募っている今、何を申上げたとてお耳に這入る筈はないのです。ないと知って、とやかく弁明したら、弁明したことがなお御癇癖に障るは必定、障ったら切腹、改易《かいえき》、お手討ち、上意討ち、黒白正邪をつけないうちに、只お憎しみ
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