って、三日ノ月型にくっきり浮き上がった傷がふるいつきたいようです。
「いちだんとお見事でござりまするな。京弥、惚れ惚れといたしました」
「では、惚れるか」
「またそんな御笑談ばっかり。お門違いでござります」
「ぬかしたな。こいつめ、つねるぞ。菊! 菊! 菊路はおらぬか。京弥め、憎い奴じゃ、兄に惚れいと言うたら御門違いじゃと申したぞ。罰じゃ。手伝うて早う着物を着せい」
 眼中、人なきごとき振舞いなのです。
 腹立たしげに豊後守が睨みつけていたが、どうしようもない。無役ながら千二百石、かりそめにも直参旗本の列につながる者が、登城、上様御前へ罷り出ようというに当って、月代を浄めるのは当り前のこと、せき立てたくとも文句の言いようがないとみえて、立ったり坐ったり、じれじれとしながら待ちうけているのを、主水之介がまた悠然と構えているのです。
「馬子にも衣裳という奴じゃ。あの妓《こ》、この妓があれば見せたいのう。駕籠じゃ。支度せい」
「お供は、京弥が――」
「いいや。いらぬ。その代りちと変った供をつれて参ろう。土蔵へ行けばある筈じゃ。馬の胸前《むなまえ》持って参って、駕籠につけい」
「胸前?」
「馬の前飾りじゃ。菊、存じておろう。鎧櫃《よろいびつ》と一緒に置いてある筈じゃ。大切《だいじ》な品ゆえ粗相あってはならぬぞ」
 意外な命を与えました。
 胸前《むなまえ》とは戦場往来、軍馬の胸に飾る前飾りです。品も不思議なら、不思議なその品を、いぶかしいことには馬ならぬ駕籠につけいと言うのでした。しかもそれを供にするというのです。
 怪しみながら躊《ため》らっているのを、
「持って参らば分る筈じゃ。早うせい」
 促して、ふたりに土蔵から運ばせました。
 見事な桐の箱です。
 表には墨の香も匂やかな筆の跡がある。

「拝領。胸前。早乙女家」

  重々しいそういう文字でした。
 只の品ではない。八万騎旗本が本来の面目使命は、一朝有事の際に、上将軍家のお旗本を守り固めるのがその本務です。井伊、本多、酒井、榊原の四天王は別格として、神君以来その八万騎中に、お影組というのが百騎ある。お影組とは即ち、将軍家お身代りとなるべき影武者なのです。兵家戦場の往来は、降るときもある、照る時もある、定めがたい空のように、勝ってみるまでは敗けて逃げる場合も覚悟しておかなければならないのです。お影組は即ちその時の用
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