そんなところを抓《つね》ってなぞして痛いではありませぬか!」
「いいえ、つねります! 抓ります! もっとつねります!……」
 同じ心配をするにしても、このふたりの心配振りは諸事穏やかでない。
 だが、肝腎の主水之介は、いつまで経っても帰らないのです。
 しらじらとして、ついに夜があけかかりました。
 しかし、沓《よう》として消息はない。
「どうしたのでござりましょうな。いかなお兄上さまでも、少しおかえりがおそうござります。それにお招きなさった方は、素姓《すじょう》が素姓、わたくし何だか胸《むな》騒ぎがしてなりませぬ」
「ゆうべ届いた腰本の書面はどこにござります? ちょっとお貸しなされませい」
 読み直してみたが、しかしそれには、てまえごときもの、とうていお対手は出来申さず候、おちかづきのしるしに粗酒一|献《こん》さしあげたく、拙邸までお越し下さらば云々と書いてあるばかりなのです。
 何でもないと思えば何でもない。
 何か企らみがあると思えば思えないこともない。
 突然、京弥のおもてに、さッと血の色がのぼりました。
「お支度なさりませ!」
「いってくれまするか!」
「ぼんやり待っておりましたとて、心配がつのるばかりでござります。何ぞ容易ならぬこと、起きているやも計られませぬ。お伴仕ります!」
 緋じりめん鹿ノ子絞りの目ざめるような扱帯《しごき》キリキリと締め直して、懐剣《かいけん》甲斐々々しく乳房の奥にかくした菊路を随えながら、ふたりの姿は朝あけの本所をいち路番町に急ぎました。
 陽があがって間もないのに、江戸の六月は朝まだきから蒸し風呂のなかに這入ったような暑さです。
「あれじゃ、あれじゃ。あの大きな屋敷がそうでござります」
「どのようなことがあっても、狼狽《うろた》えてはなりませぬぞ。京弥が抜くまでは抜いてはなりませぬぞ」
 うしろに菊路を庇《かば》って、油断なく門前へ近づきました。
 だが、屋敷のうちはしいんと静まり返って、ことりとの音もない。
 八文字にひらかれた門から大玄関まで、打ち水さえもが打ってあって、血の嵐、争闘、殺陣は元よりのこと、騒ぎらしい騒ぎがあったらしい跡もなく、不気味なほどに静まり返っているのです。
 しかしそれだけに京弥たちふたりは、一層不安がつのりました。
 この静まり方は尋常な静まり方ではない。とうにもう主水之介を陥《おと》し入れて、あ
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