かじか斯々《かくかく》でごぜえますからと早く言えばいいものを、お殿様程の分った御前を、怕いの恐ろしいのと思い違えて逃げ帰ったのがこんな騒ぎのもととなったんでごぜえます」
「不埓者《ふらちもの》めがッ。傷がむずむずと鳴いて参った! 京弥! 千二百石直参旗本の格式通り供揃いせい!」
 颯爽たる声でした。すっくと立ち上がって、手馴れの平安城相模守《へいあんじょうさがみのかみ》をたばさむと、駕籠は塗り駕籠、奴合羽《やっこがっぱ》に着替えさせた鳶の七五郎達四人を供に、京弥召し随えて直ちに行き向ったところは、赤坂溜池際の遠藤屋敷です。

       四

 乗りつけたのは、とっぷり暮れた六ツ下がりでした。
「京弥、つづけッ」
 すべてが只颯爽、小気味がいい位です。ずいずいと式台にかかると、
「早乙女主水之介、眉間傷御披露に罷り越した、通って参るぞ。主計頭どの居室に案内《あない》せい」
 注進するひまも止めるひまもない。打ちうろたえて、まごまごしている近侍の者達に、ピカリピカリと傷の威嚇を送りつつ、悠揚として案内させていったところは、奥書院の主計頭が居室でした。
「誰じゃ。何者じゃ。どたどたと騒がしゅう振舞って何者じゃ」
 四十がらみの、ずんぐりとした好き者《しゃ》らしい脂肉《あぶらじし》を褥の上からねじ向けて、その主計頭がいとも横柄に構えながら、二万四千石ここにありと言いたげに脇息《きょうそく》もろ共ふり返ったのを、ずいとさしつけたのはあの三日月形です。
「この傷が見参じゃ。とく御覧召されい」
「よッ。さては――いや、まさしく貴殿は!」
「誰でもござらぬ。早乙女の主水之介よ。うい傷じゃ、その傷もって天上御政道を紊《みだ》す輩《やから》あらば心行くまで打ち懲《こ》らせ、とまでは仰せないが、上将軍家御声がかりの直参傷《じきさんきず》じゃ。当屋敷うちに、誰袖源七の幽霊がおる筈、のちのちまでの語り草にと、これなる傷にて買いに参った。早々にこれへ出さッしゃい」
「なにッ。――知らぬ! 知らぬ! いや、左様なもの存ぜぬわッ。幽霊が徘徊《はいかい》致すなぞと、うつけ申して狂気と見ゆる! みなの者! みなの者! 何を致しおるかッ。この狂気者、早う補えい!」
 股立《ももだち》とって、バラバラと七八名が取り巻こうとしたのを、只ひと睨み!
「控えい! 陪臣《またもの》!」
 一|喝《かつ》しなが
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