。金的! 見ねえ! 見ねえ! 長割下水《ながわりげすい》のお殿様だ。傷の御前様が御帰りだぜ」
「違げえねえ。相変らずのっしのっしと頼もしい恰好をしていらっしゃるな。京へ上ったとかエゾへ下ったとかいろいろの噂があったが、もう御帰りになったと見えるな。六月前までや毎晩ここでお目にかかった御殿様だ。急に五丁町が活気づいて来やがったね」
 言う下から、あちらの街々、こちらの街々に、勃然《ぼつぜん》として活気づいたその声が揚がりました。
「ま! 見なんし! 見なんし! 豆菊《まめぎく》さん! 蝶々さん! お半さん! 殿様が御帰りでござんす! 早乙女の御前様が御帰りでありんすよ!」
「どこに! どこに! ま!……」
「やっぱりすうっと胸のすくような傷痕をしてでござんすな。今宵からまたみなさん気の揉める方がお出来でありんしょう。――わちきも水がほしゅうなりました」
 呼ぶ声、言う声、いずれもひそかな恋を隠した渇仰の声です。――また無理もない。旅に出る前までは、まる三カ年間、夜ごと宵々ごとに五丁町のこうしたそぞろ歩きを欠かしたことのない主水之介でした。その早乙女の退屈男が半年ぶりにふうわりとまた天降《あまくだ》って来たのです。しかも、あの三日月型の傷痕は、長の旅風《たびかぜ》に洗われて愈々凄艶に冴えまさり、迫らず急がず、颯爽として行く姿の水際立った程のよさ! ――犬は尾を巻いてこそこそと逃げ隠れ、風も威風に打たれたものか、ピタリと鳴りを静めて、まばたく灯影も主水之介ゆえに、まぶしく輝き出したのではないかと思われるようなすばらしさでしたから、気の揉める者も出来るであろうし、胸が騒いで、咽喉《のど》が乾いて、急に水のほしくなった者が二人や三人でたのは当り前でした。
 しかし、当の主水之介は只黙々として、心の髄《ずい》までがいかにもしんしんと寂しそうでした。
 覗くのでもない。
 登《あが》るのでもない。
 漫然として当もなく只ぶらぶらと灯影の下を縫って行くのです。――さながらにその心は、ひとりわびしくしみじみと旅情をでも味わっているかのようでした。いや、旅情です。まさしくそれは旅情です。人影もない知らない土地をぶらぶらするのもよい味のする旅情だが、ざわめく雑沓の人の中を、自分ひとりのけ者となりながら、当もなくぶらぶらと歩いて行くのも、悲しくわびしく何とはなしに甘やかしい涙がほろりと湧い
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