」
「………」
「な! お兄様!」
「………」
「江戸の灯でござります。久方ぶりでござりますもの、さぞかしおなつかしゅうござりましょう」
「………」
「お! お兄様!」
「………」
「お兄様と申しますのに! な! ――お兄様!」
ところが当の御兄様は、生きているのか死んでいるのか、音なき風の如く更に声がないのです。
「もし! ……駕籠屋さん! 駕籠屋さん! 御兄様がどうかしたかも知れませぬ。ちょッと乗り物をお止め下さりませ」
「え?」
「呼んでも呼んでもお兄様の御返事がござりませぬ。どうぞなされたかも知れませぬゆえ、早う止めて、ちょっと御容子を見て下さりませ」
「殿様え! もし傷の御殿様え!」
少しうろたえて、ひょいと中をのぞくと、まことに、かくのごとく胆が坐っていたのでは敵《かな》うものがない。うつらうつらといいこころ持ちそうに夢の国でした。通う夢路は京か三河か日光か。それとも五十四郡の仙台か。久方ぶりに帰って来た大江戸の灯も、そろそろ始まりかけた退屈ゆえに、一向なつかしくもないもののごとく、軽いまどろみをつづけたままなのでした。
「ま! 子供のような寝顔を遊ばして、可愛いお顔! ――でも、つまらなそうでござりますな。どうしたら、わたくし達のようにうれしくなることでござりましょう。な! お兄様! お兄様!……」
呼んでみたとて恋もない独り者が恋のありすぎる二人者のように、そう造作なくうれしくなる筈はないのです。――そのまま駕籠は千|住《じゅ》掃部宿《かもんのしゅく》を出払って、大橋を渡り切ってしまうと、小塚ッ原から新町、下谷通り新町とつづいて、左が浄願寺《じょうがんじ》、右が石川日向、宗対馬守なぞのお下屋敷でした。真ッすぐいって三ノ輪、金杉と飛ばして行けば、上野のお山下から日本橋へ出て江戸の真中への一本道です。寺の角から新堀伝いの左へ下ると、退屈男とはめぐる因果の小車《おぐるま》のごとくに、切っても切れぬ縁の深い新吉原の色街《いろまち》でした。――もうここまで来れば匂いが強い。右も左も江戸の匂いが強いのです。
しかも、時刻はお誂え向の丁度宵下がり。
何ごとも知らないものの如く眠っていたかと思われたのに、その浄願寺角までやって来ると、俄然、カッと退屈男が息を吹き返した人のように、夢の国から放たれました。
「止めいッ。駕籠屋!」
「へ?」
「匂うて参った。身
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