きゅうちょう》ふところに入る時は猟夫《りょうふ》もこれを殺さずと申す位じゃ。ましてやここは諸縁断絶《しょえんだんぜつ》、罪ある者とてもひとたびあれなる総門より寺内に入らば、いかなる俗法、いかなる俗界の掟《おきて》を以てしても、再び追うことならぬ慈悲の精舎《しょうじゃ》じゃ。衆生済度《しゅじょうさいど》を旨と致すわれら仏弟子が、救いを求めてすがり寄る罪びとを大慈大悲の衣の袖に匿《かくま》うたとて何の不思議がござる。寺領《じりょう》の掟すらも弁えぬめくら武士が、目に角立ててのめくら説法、片腹痛いわッ。とっとと尾ッぽを巻いて帰らっしゃい」
「申したな。それしきの事存ぜぬわれらでないわ。慈悲も済度《さいど》も時と場合によりけりじゃ。普《あまね》き信者が信心こめた献納の祠堂金《きどうきん》は、何物にも替え難い浄財じゃ。それなる替え難い浄財を尊き霊地に於てスリ取った不埒者《ふらちもの》匿《かくま》うことが、何の慈悲じゃッ。何の済度じゃッ。大慈大悲とやらの破れ衣が、通らぬ理屈申して、飽くまでも今の女匿おうと意地張るならば、日之本六十余州政道御意見が道楽の、江戸名物早乙女主水之介が、直参旗本の名にかけて成敗してつかわそうぞ。とっとと案内さっしゃい」
「なにッ、ふふうむ。直参じゃと申さるるか。身延霊場に参って公儀直参が片腹痛いわッ。御身にお直参の格式がござるならば、当山当院には旗本風情に指一本触れさせぬ将軍家|御允許《ごいんきょ》の寺格がござる。詮議無用じゃ、帰らっしゃい! 五万石の寺格を預かる院代玄長、五万石の寺格を以てお断り申すわッ。詮議無用じゃ、帰らっしゃい! 帰らっしゃい!」
「申したか! ウッフフ、とうとう伝家《でんか》の宝刀《ほうとう》を抜きおったな! 今に五万石を小出しにするであろうと待っていたのじゃ。よいよい、信徒を荒し霊地を荒す鼠賊《そぞく》めを、霊地を預かり信徒を預かる院代が匿もうて、五万石の寺格が立つと申さるるならば、久方ぶりに篠崎流の軍学大出し致してつかわそうぞ。あれなる女はいずれへ逃げ落ちようと、御僧がこれを匿もうた上は、御身が詮議の対手じゃ、法華信徒一同になり代って、早乙女主水之介ゆるゆる詮議致してつかわそうわ。今から覚悟しておかっしゃい。いかい御やかましゅうござった」
 無念だが仕方がない。胆《たん》を以て、腕を以て、あの向う傷に物を言わせて、力ずくにこれを押し破ったならば破って破れないことはないが、そのため怪我人を出し、血を見るような事になったら、他の猪勇《ちょゆう》に逸《はや》る旗本なら格別、わが早乙女主水之介には出来ないのです。霊地を穢《けが》すその狼藉《ろうぜき》が、わが退屈男の気性気ッ腑として出来ないのです。ましてや対手は代役ながら、治外の権力ともいうべき俗人不犯の寺格を預かっている寺僧でした。これが僧衣の陰に隠して、飽くまでも匿まおうと言うなら、まことに篠崎流の軍学以外にひと泡吹かする途はない。
「わははは。あの荒法師なかなかに胆《たん》が据っておるわ。いや、よいよい。ずんときびしく退屈払いが出来そうじゃ。ひと工夫致してつかわそうぞ」

       五

 引き揚げてのっそりと帰ろうとしたとき、それ見たことか小気味がいいわと言うように、嘲笑いながら院代玄長が消えていった同じその行学院《ぎょうがくいん》の小暗い庭先から、隠れるようにつつうと走り出して来たのは、黒い小さな人の影です。しかも引き揚げようとしている退屈男の行く手に塞がると、不意に呼びかけました。
「もうし、あの、殿様、お願いでござります」
「なにッ」
 同時にギラリ、退屈男の目が冴え渡りました。頭《つむり》も丸い、僧衣も纏っているのに、まさしく今の、もうしあのと言った声音《こわね》は女だったからです。
 いや、声音ばかりではない。プーンと強く鼻を打ったものは、まぎれもなく若い女性の肌の匂いでした。その上に色がくっきり白い、夜目にもそれと分る程にくっきりと白いのです。のみならずその面《おも》ざしは、円頂僧衣《えんちょうそうい》の姿に変ってこそおれ、初《う》い初いしさ、美しさ、朝程霧の道ではっきり記憶に刻んでおいたあの謎《なぞ》の娘そっくりでした。――刹那! 退屈男の鋭い言葉が飛んだのは言うまでもない。
「不敵な奴めがッ、また化けおったなッ」
「いえ、御勘違いでござります。滅相もござりませぬ。御勘違いでござります」
「申すなッ、娘に変り年増に変り、なかなか正体現さぬと聞いておるわ。自ら飛び出して来たは幸いじゃ。窮命《きゅうめい》してつかわそうぞ。参れッ」
「いえ、人違いでござります。人違いでござります。わたくしそのようなものではござりませぬ。只今悲しい難儀に合うておりますゆえ、お殿様のお力にすがろうと、このように取り紊《みだ》した姿で、お願いに逃
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