うちからね、この通り用意して来たんですよ」
 背中の奥から、盗んだ西瓜でも出すように、こっそり取り出したのは、すさまじいことに一升徳利が二本です。しかも万事に抜け目がない。
「ここが一番風通しがよくてね。ひと目にかからず中の様子はひと眺めという、お殿様の御本陣にゃ打ってつけの場所です。今のうちに取っておきましょうから、おいでなせえまし」
 いざなっていった所は、広縁側の柱の蔭の、いかさま見張るには恰好な場所でした。そのまにもひとり二人、五人、八人といやちこき善男善女達が、あとからあとからと参詣に詰めかけてお山はしんしん、太鼓はドンツク、夕べの勤行《ごんぎょう》の誦唱《ずしょう》も極楽浄土のひびきを伝えながら、暮れました、暮れました。善も悪も恋も邪欲も、只ひと色の黒い布に包んで、とっぷりと暮れたのです。

       三

 ふけるにつれて、参籠所はギッシリと横になる隙もない程の人でした。百畳、いや二百畳、いや、三百畳敷位もあろうかと思われるその大広間と、虫のように黒くうごめくその数え切れぬ人々を、ぼんやり暗く照らしているのは、蓮華燈が六つあるばかり。その明滅する灯《あかり》の下で、鮨詰めの善男善女達が、襲いかかる睡魔を避けようためにか、蚊の唸るような声をあげて、必死とナンミョウホウレンゲキョウを唱えつづけました。
 しかし、眉間の傷も冴えやかなわが早乙女主水之介は、うしろの柱によりかかって、いとも安らかに白河夜船です。まことに、これこそ剣禅一味の妙境に違いない。剣に秀で、胆に秀でた達人でなくば、このうごめく人の中で、しかも胡坐《あぐら》を掻いたまま、眠りの快を貪るなぞという放れ業は出来ないに違いないのです。
「殿様え。ね、ちょっと、眉間傷のお殿様え」
「………」
「豪儀《ごうき》と落付いていらっしゃるな。鼾《いびき》を掻く程も眠っていらっしゃって、大丈夫かな」
 ちびりちびり三公は、二升徳利のどじょう殺しを舐《な》め舐め大満悦でした。
 そのまにいんいんびょうびょうと、七|堂伽藍《どうがらん》十六支院二十四坊の隅々にまでも、不気味に冴えてひびき渡ったのは丁度四ツ。――その時の鐘が鳴り終るや殆んど同時です。さやさやと忍びやかに広縁廊下を通りすぎていったのは、まさしく女の衣《きぬ》ずれの音でした。――刹那! 轡《くつわ》の音に目を醒すどころの比ではない。何ごとも知らぬ
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