も、御門が閉まっておらば素通り差支えない筈、ましてや貴殿ごとき素姓《すじょう》も知れぬ旅侍にかれこれ言わるる仔細ござらぬわッ。供先汚して不埒な奴じゃッ。搦《から》めとれッ、搦めとれッ。行列|紊《みだ》す浪藉者《ろうぜきもの》は、打ち首勝手たること存じおろう! 覚悟せい! 覚悟せい」
 競いかかろうとしたのを、霹靂《へきれき》の一声でした。
「無礼者、土下座せい! これなる袱紗《ふくさ》の葵御紋所《あおいごもんどころ》目にかからぬかッ。わが身体に指一本たりとも触れなば、七十三万石没所であろうぞッ。畏くもお墨付じゃ。土下座せい!」
 叱咤《しった》しながら、バラリ袱紗を払いのけて恭《うやうや》しく捧持しながら、ずいと目の前にさしつけたのは、前の将軍家光公御直筆なる長沢松平家重代のあのお墨流れです。これに会っては敵わない。陪臣共の百人千人、いか程力み返って見たところで、手の出しようがないのです。パタ、パタ、パタと土下座すると、土を舐《な》[#底本ではルビ《な》は「土」につく形に誤植]めんばかりにひれ伏しました。その中をずいずいと、威儀正しく歩み進むと、薩州侯の乗物をのぞみながら、凛《りん》として呼ばわりました。
「下郎共が無礼仕ったゆえ、直参旗本早乙女主水之介、松平の御前の御諚《ごじょう》によって、とくと、承わりたい一儀がござる。島津殿、お墨付にござるぞ。乗物棄てさっしゃい」
「………」
「なぜお躊《ため》らい召さる。征夷将軍がお墨付に対《むか》って、乗物のままは無礼でござろうぞ。※[#「※」は「勹」の中に「夕」、第3水準1−14−76、152−上−2]々《そうそう》に土下座さっしゃい」
 むッとした容子だったが、大隅、薩摩、日向三カ国の太守と雖も、江戸八百万石御威光そのものなる御墨付の前には気の毒ながら塵芥《ちりあくた》です。
「ははっ――、修理太夫控えましてござります」
 倉皇《そうこう》としながら土の埃の街道ににじり出て、頭《かしら》も低く平伏したのを小気味よげに見下ろしながら、わが退屈男はやんわりと皮肉攻めの搦手《からめて》から浴びせかけました。
「念のために承わる。今しがた、御門前を騒がしたるあの下郎共は、御身《おんみ》が家臣でござろうな」
「左様にござります。それが何か?」
「控えさっしゃい。それが何かとは何事にござる。臣は即ち主侯の手足も同然、家臣の者が不埒働かば、主侯がその責《せめ》負わねばなりませぬぞ。お身御覚悟が、ござろうな」
「はっ。ござりまする」
「然らば問わん。今しがた彼奴共《あやつども》が、当松平家の御門閉っておらば素通り差支えないと無礼申しおったが、何を以って左様な曲言申さるるぞや」
「それはその……」
「それはそのが何でござる。恐れ多くもこれなるお墨付には、左様な御上意一語もござりませぬぞ。長沢松平家は宗祖もお目かけ給いしところ、爾今東海道を上下道中致す諸大名共は右長沢家に対し、各々その禄高に相応したる挨拶あって然るべしと御認めじゃ。さるをかれこれ曲弁申して、素通り致すは何のことでござる。上意にそむく不埒者《ふらちもの》、これが江戸に聞えなば島津七十三万石に傷がつき申そうぞ。それとも御身、江戸宗家に弓引く所存でござるかッ」
「滅、滅、滅相もござりませぬ。ははっ……、なんともはや、ははっ……、不、不調法にござりました。何とぞお目こぼし給わりますれば、島津修理、身の倖《しあわ》せにござります。ははっ、こ、この通りにござります」
「そうあろう、そうあろう。血あって涙あるが江戸旗本じゃ。わざわざ事を荒立とうはない。以後気をつけたらよろしゅうござろうぞ。ならば、これなるお墨付の条々も、有難くおうけ致すでありましょうな」
「はっ、致しますでござります」
「それ承わらば結構じゃ。――御前! 源七郎|君《ぎみ》! もう頃合いでござりましょうぞ」
 うしろに下がって声高《こわだか》に呼び上げた退屈男のその合図待ちうけながら、閉められていた御陣屋門がギイギイと真八文字に打ち開かれると、茶坊主お小姓一統を左右に侍《はべら》せて、あの曲※[#「※」は「祿−示」、第3水準1−84−27、153−下−2]《きょくろく》にいとも気高く腰打ちかけながら、悠然として、その姿をのぞかせたのは、ぐずり松平の御前です。しかもおっしゃったお言葉がまた、何ともかとも言いようがない。
「おう、薩州か。一別以来であった喃」
「ははっ――、いつもながら麗しき御尊顔を拝し奉り、島津修理、恐悦至極に存じまする」
「左様かな。そちが一向に姿を見せぬのでな。一度会いたいと思うていたが、身も昔ながらにうるわしいかな」
「汗顔《かんがん》の至りにござりまする。何ともはや……申し条もござりませぬ」
「いやなになに、会うたかも知れぬが年が寄ると物覚えがわるうなって喃。時に、薩摩の方は飢饉かな」
「と仰せられますると?……」
「久しく手土産を頂かぬので喃、七十三万石も近頃は左前かと、人ごとならず心配しておるのじゃ。どうじゃな。米なぞも少しはとれるかな」
「はっ。いえ、なんともはや、只々汗顔の至りでござりまする。――これよ! これ! な、何をうろたえおるかッ。早う、あれを、御音物《ごいんもつ》を、用意せぬかッ」
「いや、なになに、そのような心配なぞ御無用じゃ。御勝手元が苦しゅうなければ三万両が程も拝借致そうと思うておったが、飢饉ならばそれも気の毒じゃでな。お茶なぞ飲んで参らぬかな」
「いえ、はっ、恐れ入りましてござります。これよ! これッ、な、なぜ早う用意せぬかッ。御前が三万両との有難い仰せじゃ。とく献上せい!」
 右に左にまごまごと陪臣共が飛び走って、七十三万石の御太守も街道の真ん中に冷や汁流しながら、只もううろうろとすっかりひねられた形でした。やがてのことに整えられたのはその三万金です。うず高く積みあげて引き退ろうとしたのを、
「まだ忘れ物がある」
 呼び止めたのは退屈男でした。
「先刻供侍が馬を斬った筈じゃ。三河の馬はちと高うござる。五百両が程も馬代、支払わっしゃい」
 まことにどうも仕方がない。三宝に打ちのせて整えたのを小気味よげに見眺めながら、退屈男がいとも朗らかに言いました。
「御前。御意はいかがにござります。薩摩の山吹色はまた格別のようでござりまするな」
「うんうん、飢饉にしてはなかなか色艶もよさそうじゃ。これよ、薩州、いかい心配かけたな。ひと雨あらば小魚共もよう喰うであろうゆえ、二三匹が程も江戸の屋敷の方へ届けようぞ。無心致したお礼にな。では主水之介、そちにも骨折賃じゃ、二箱三箱持っていったらどうじゃな」
「いえ、折角ながら――」
 言下に斥けると、まことに退屈男の面目躍如たるものがありました。
「折角ながら、道中の邪魔になるばかりでござりますゆえ、御辞退仕りまする。こちらの五百両も――、言ううちに愛馬を斬られた御領内の若者がかしこへ参りました。何とぞあれへ。その代り――」
「何か所望か」
「手前、先程あれなる向うの川でハヤ共を一匹も物に致しませなんだが、いかにも心残りでなりませぬ。御前のその御曲※[#「※」は「祿−示」、第3水準1−84−27、155−下−1]《おきょくろく》、暫時の間拝借仕りまして、事のついでにお坊主衆もお借り受け申し、お茶なぞねじ切りながら、心行くまで太公望致しとうござりまするが、いかがでござりましよう」
「うんうん、若いに似合わず禅味があってうい奴じゃ、石斎、妙庵、気に入るよう支度致してとらせい」
 朱塗り御紋所打ったる曲※[#「※」は「祿−示」、第3水準1−84−27、155−下−9]を川岸に運ばせて、左右に二人の茶坊主を打ち随えながら、悠然として腰打ちかけると、あやつめがッ、要らざる節介に、と言わぬばかりでくちおしそうに睨み睨み通りすぎていった薩摩の行列に、晴れ晴れとして呼びかけました。
「七十三万石より少しばかり御無礼した味わいじゃ、坊主々々、ここらで一つねじ切ったらよかろうぞ!」

 付記 ぐずり松平について。
[#ここから2字下げ]
退屈男の第五話に見えるぐずり松平の事実は、隠れたる逸事として徳川三百年中東海道に鳴りひびいた秘話中の秘話です。十七代連綿として相つづき、その最後の第十七代|松平上野介忠敏《まつだいらこうずけのすけただとし》こそは、幕末剣客中の尤物《ゆうぶつ》で、神田講武所の師範代を長らく勤め、かの清川八郎なぞと共に、新徴組を組織して、その副隊長に擬せられた一代の風雲児です。ぐずり御免のお墨付と共に、家光公より拝領の名笛が維新後赤坂辺に逼息《ひっそく》していられたその後裔《こうえい》に伝えられていたという話ですが、今どこへいったか、現存すれば博物館ものでしょう。
[#ここで字下げ終わり]



底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:皆森もなみ
2001年5月18日公開
2001年8月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング