いるかに見えたが、さすがに武人の嗜《たしな》みでした。
「ほほう、なかなかの名手じゃな」
 早くもその蹄の音から余程の上手と察して、何物であろうかとふり返ったその目にくっきりと映ったのは、逞しやかな黒鹿毛に打ち跨った年若い農夫の姿です。しかもそれが見るからすがすがしい裸馬なのでした。その裸馬を若者は鮮かに乗りこなしつつ、パッカ、パッカと駈け近づいて来ると、ヒラリ馬をすてて、不意にいんぎんに退屈男へ呼びかけました。
「御清興中をお妨げ致しまして相済みませぬ。手前この近くの百姓でござります。川下で馬を洗いとうござりまするが、お差し許し願えませんでしょうかしら――」
「………?」
「あの、いかがでござりましょう? お差し許し願えませんでしょうかしら――」
「………?」
「いけませんようでしたら、明日に致しましてもよろしゅうござりまするが、いかがでござりましょう。お差し許し願えますようなら――」
「まて、まて。返事をせずにいたは、その方の人柄を観ておったのじゃ。そち、百姓に似合わずなかなか学問致しておるな」
「お恥しゅうござります。御領主様が御学問好きでござりますゆえ、ついその――」
「見様見真似でその方達までが寺子屋通い致すと申すか、何侯の御領内かは存ぜぬが、さだめし御領主は名君と見ゆるな。近頃心よい百姓に会うたものじゃ。苦しゅうない、苦しゅうない、存分に浴びさせてつかわしたらよかろうぞ」
「有難うござります。有難うござります。では御免下さりませ。――黒よ、黒よ、御許しじゃ。さぞ待ち遠であったろうな、今浴びさせて進ぜるぞ」
 人に物言うごとくその愛馬をいたわりながら、木蔭に這入って衣類をぬぎすてると、腰に閃く源氏の御旗もさわやかに、健康そのもののような筋骨誇らけき全裸身を、夕《ゆうべ》の陽ざしに赤々と照らせながら、ヒラリ、裸の馬の背に打ち跨ったかと見るまに、水瀑躍る碧潭《へきたん》のすがすがしげな流れの中へ、サッと乗り入れました。
   涼しさや、時雨《しぐれ》しあとの洗馬――。
 俳人|味通《みつう》の句にある通りです。絵なら、水墨《すいぼく》ひと刷毛の力描き、水に躍る馬|逞《たくま》しく、背に手綱かいぐる人また逞しく、空は夕陽の鰯波《いわしなみ》にのどけく映えて、流れはさらに青々と愈々青く、飛沫もさらにまた涼しく躍り、まこと清涼、十万石の眺めでした。
「鮮かじゃ。鮮か
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