ってもまた、祖先|発祥《はっしょう》功名歴代忘れてならぬ土地です。
 だが、人の心に巣喰う退屈は、恋の病共々四百四病のほかのものに違いない。一木一草そよ吹く風すら、遠つ御祖《みおや》の昔思い偲《しの》ばれて、さだめしわが退屈男も心明るみ、恋しさ慕《なつ》かしさ十倍であろうと思われたのに、一向そんな容子がないのです。
「左様かな」
「え?……」
「何じゃ」
「何じゃと言うのはこっちのことですよ。今旦那が左様かなとおっしゃいましたが、何でござんす?」
「さてな、何に致そうかな。名古屋からここまでひと言も口を利かぬゆえ、頤《あご》が動くかどうかと思うてちょッとしゃべって見たのよ。時にここはどの辺じゃ」
「ここが音に名高いあの赤坂街道でござんす」
「音に名高いとは何の音じゃ」
「こいつあどうも驚きましたな、仏高力、鬼作左、どへんなしの天野三郎兵衛のそのお三方が昔御奉行所を開いていたところなんですよ」
「いかいややこしいところよ喃《のう》、吉田の宿《しゅく》へはまだ遠いかな」
「いえ、この先が長沢村でござんすから、もうひとのしでごぜえます」
 物憂《ものう》げに駕籠舁共《かごかきども》を対手にしながら、並木つづきのその赤坂街道を、ゆらりゆらりとさしかかって来たのが長沢村です。何の変哲もなさそうな村だが、何しろ時がよい。六月初めの夕焼け時で、空はいち面の鰯波《いわしなみ》――。こやつが空に散ったときは奇妙に魚が釣れると言い伝えられているその鰯波です。事実また魚の方でもあれが空に散ると、いくらか情を催すと見えて、駕籠にゆられながら、道に沿った流れをひょいと見ると、しきりにキラキラと銀鱗が躍っているのだ。――刹那!
「まてッ」
 すさまじい気合でした。ピリッと脳天にひびくような鋭い声で呼びとめながら、のっそり駕籠から降りると、まことにどうも主水之介は、糸の切れた凧のような男です。
「駕籠屋、流れにハヤがおる喃」
「笑《じょう》、笑談じゃござんせんよ。あんまり大きな声をお出しなすったんで、胆《きも》をつぶしました。魚は川の蛆《うじ》と言うくれえなものなんだもの、ハヤがいたって何も珍しかござんせんよ」
「いいや、そうではない。流れに魚族が戯れおるは近頃珍重すべきことじゃ。身共はここで釣を致すぞ」
「え?……」
「予はここでハヤを対手に遊興を致すと申すのじゃ。どこぞ近くの農家にでも参らば
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