《きも》の太さはそれ以上でした。
「ウッフフ。並んでいるな。いや、御苦労じゃ。御苦労じゃ。では、京弥どの、今頃泣き濡れて生きた心持もせずに待ち焦れている者があるゆえ、先を急ごうよ。馬鹿者共の腐り血を見たとて、何の足しにもならぬからな。――それからお杉の方にひとこと申しておきますが、折角ながらこの可愛い奴は、手前が家の土産に貰って参りまするぞ。あとにて河原者《かわらもの》なと幇間《たいこ》なと、お気が済む迄お可愛いがりなさいませよ。では、そろそろ参るかのう」
 言いつつすっぽりと面《おもて》を包んで、京弥を後ろに随えると、不敵にも懐手をやったまま、刄《やいば》の林目がけてすいすいと歩み近づきました。だのに伝九郎の一党が、一指をさえも染める事が出来ないから奇態です。これが人の五体から放たれる剣の奥義のすばらしい威力と言うものに違いないが、退屈男の物静かな歩みがすいと一歩近よると、たじたじと二歩、剣の林があとへ引き、また一歩すいと行くと、三歩またたじたじとあとへ退《の》き、しかもとうとう一太刀すらも挑みかかり得ないうちに、両人の姿は悠揚と表の方へ行き去ってしまいました。
 しかしその表には、仇めいた強敵が今ひとり退屈男を待ち伏せしていたのでした。それはあの散茶女郎の水浪で、姿を見るや駈けるようにしてその袖を捕らえにかかりましたので、退屈男は女の言葉がないうちに言いました。
「許せ許せ。先程の約束を果せと言うのであろうが、わしは至って不粋《ぶすい》者でな。女子《おなご》をあやす道を知らぬのじゃ。もうあやまった。許せ許せ」
 言いすてると袖を払って、さっさと道を急ぎました。
 それだのに屋敷へかえりつくや、うなじ迄も赤く染めている菊路の方へ、これも一面の紅葉を散らしている京弥をずいと押しやるようにすると、至って粋《いき》な言葉をぽつりとひとこと、愛撫のこもった揶揄《やゆ》と共に言いました。
「わしの身体はごく都合がようてな、目に見て毒なものがあったり、耳に聞いて毒なものがあったりすると、じき俄盲目《にわかめくら》になったり、俄聾《にわかつんぼ》になったりするゆえ、遠慮せずこの目の前でずんと楽しめよ」
 ――こんな兄はない。ウフフという退屈男の清々《すがすが》しい笑いがはぜて、のどかに夜があけました。そうしてこの小気味のいい男の小気味のいい物語は、これから始まるのです。



底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
   1997(平成9)年1月20日新装第8刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:皆森もなみ
2000年6月28日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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