りなさりませぬか」
「突然異な事を申す奴よ喃《のう》。叱りはせぬよ、叱りはせぬよ」
「きっとでござりまするな」
「ああ、きっと叱りはせぬよ。いかがいたした」
「では申しまするが、わたくし今、一生一度のような悲しい目に、合うているのでござります……」
「なに?一生一度の悲しい目とな? 仔細は何じゃ」
「その仔細が、あの……」
「いかがいたした」
「お叱りなさりはせぬかと思うて恐いのでござりますけれど、実はあの、お目をかすめまして、この程から、さるお方様と、つい契り合うてしもうたのでござります」
「なに! なに! ほほう、それはどうも容易ならぬ事に相成ったぞ。いや、まて、まて、少々退屈払いが出来そうじゃわい。今坐り直すゆえ、ちょッとまて! それで、なんとか申したな。この程からさるお方様と、どうとか申したな。もう一度申して見い」
「ま! いやなお兄様! そのような事恥ずかしゅうて、二度は申されませぬ」
「ウフフ、赤くなりおったな。いや、ついその、よそごとを考えていたのでな、肝腎なところをきき洩らしたのじゃ。そう言い惜しみせずに、もそっと詳しいことを申してみい」
「実はあの、さるお方様と、お兄様のお目をかすめまして、ついこの程から契り合うたのでござります」
「ウフフ。そうかそうか。偉いぞ! 偉いぞ! まだほんの小娘じゃろうと存じていたが、いつのまにか偉う出世を致したな。いや天晴れじゃ天晴じゃ。兄はこのようにして女子《おなご》ひとり持てぬ程退屈しているというのに、なかなか隅におけぬ奴じゃ。それで、そのさるお方とか言うのは、いずこの何と申される方じゃ」
「いえ、そのような事はあとでもよろしゅうござりますゆえ、それより早う大事な事をお聞き下さりませ。実は、毎晩お兄様がお出ましのあとを見計らって、必ずお越し下さりましたのに、どうしたことか今宵はお見えにならないのでござります……」
「なんじゃ、きつい用事を申しつくるつもりじゃな。では、この兄にその方をつれて参るよう、恋の使いをせよと言うのじゃな」
「ま! そのような冗談めかしい事ではござりませぬ。いつもきっと五ツ頃から四ツ頃迄にお越し遊ばしますのに、どうしたことか今宵ばかりはお見えがございませなんだゆえ、打ち案じておりましたところへ、お使いの者が飛んで参られまして、ふいっとそのお方様がお行方《ゆくえ》知れずになられたと、このように申されましたのでござります」
「なに? 行方《ゆきがた》知れずになったとな? それはまた、何時頃の事じゃった」
「お兄様がお帰り遊ばしましたほんの四半|刻《とき》程前に、お使いの方が探しがてら参られたのでござります」
「ほほうのう――」
 少しこれは世の中が退屈でなくなったかなと言わぬばかりに、しみじみとした面《おもて》を愛妹菊路の方にさし向けて、なに事かをややしばし考えつめていましたが、俄然旗本退屈男と異名をとった早乙女主水之介は、その目にいつにないらんらんとした輝きをみせると、言葉さえも強めながら言いました。
「よし、相分った。では、この兄の力を貸せと申すのじゃな」
「あい……。このような淫《みだ》らがましい事をお願いしてよいやらわるいやら分らぬのでござりますけれど、わたしひとりの力では工夫《くふう》もつきませなんだゆえ、先程からお帰りを今か今かとお待ちしていたのでござります」
「そうか。いや、なかなか面白そうじゃわい。わしはろくろく恋の味も知らずにすごして参ったが、人の恋路の手助けをするのも、存外にわるい気持のしないもののようじゃ。それに、ほかの探し物ならわしなんぞ小面倒臭うて、手も出すがいやじゃが、人間一匹を拾い出すとは、なかなか味な探し物じゃわい。心得た。いかにもこの兄が力になってつかわすぞ」
「ま! では、あの、菊の願い叶えて下さりまするか」
「自慢せい。自慢せい。そちも一緒になって自慢せい。早乙女主水之介は退屈する時は人並以上に退屈するが、いざ起つとならばこの通り、諸羽流《もろはりゅう》と直参千二百石の音がするわい」
「ま! うれしゅうござります、嬉しゅうござります! では、あの、今よりすぐとお出かけ下さりまするか」
「急《せ》かでも参る参る。こうならば退屈払いになる事ゆえ、夜半だろうと夜明けだろうと参ってつかわすが、一体そちのいとしい男とか申すのは、どこの何と言われる方じゃ」
「榊原大内記《さかきばらだいないき》様のお下屋敷にお仕えの、霧島京弥《きりしまきょうや》と申される方でござります」
「えろう優しい名前じゃな。では、その、京弥どのとやらを手土産にして拾って参らばよいのじゃな」
「あい……、どちらになりと御気ままに……」
「真赤な顔をいたして可愛い奴めが! どちらになりとはなにを申すぞ、首尾ようつれて参ったら、のろけを聞かしたその罰に、うんと芋粥の馳走をしろよ」
 愛撫のこもった揶揄《やゆ》を愛妹にのこしておいて例のごとくに深々と宗十郎頭巾にその面を包みながら、やがて悠々と素足に雪駄の意気な歩みを表に運ばせて行くと、吸われるように深夜の闇へ消え去りました。

       四

 表は無論もう九ツすぎで、このあたり唯聞えるものは、深夜の空にびょうびょうと不気味に吠える野犬の唸り声のみでした。その深い闇の道を退屈男は影のみの男のように、足音も立てずすいすいと宮戸川べりに沿いながら行くこと七丁――。波も死んだようでしたが、そこの岸辺の一郭に、目ざした榊原大内記侯のお下屋敷を発見すると、俄然、爪先迄も鏘々《そうそう》として音を立てんばかりに、引締りました。緊張するのも無理はない。殆んど三年越し退屈しきっていたところへ、突如として今、腕力か智力か、少なくも何程か主水之介の力を必要とする事件が降って湧いたのです。無論まだ諸羽流《もろはりゅう》正眼崩《せいがんくず》しを要するか否かは計り知らない事でしたが、事の急は、それなる霧島京弥といった男の行方不明事件が、自発的のものであるか、他より誘拐されたものであるか、誘拐されたものとするなら、およそどういう原因のもとに、どういう方面の者の手が伸びているか、先ず第一にその事を嗅ぎ知る必要がありましたので、敵か味方かも分らぬ大内記の下屋敷を目ざしつつぬかりなく歩みよると、それとなく屋敷の構えを窺《うかが》いました。――そもそもがこのあたり隅田川べりのお下屋敷は、殆んど大半が別荘代りを目的のものでしたので、警固の工合なぞも割に簡単な構えでしたが、しかし簡単とは言うものの、榊原大内記侯はともかくもお禄高十二万石の封主です。留守を預かる番士の者も相当の数らしく、御門の厳重、お長屋の構え、なかなかに侮《あなど》りがたい厳しさでした。勿論正々堂々と押し入ったにしても、主水之介とて無役ながらも天下御直参のいち人とすれば、榊原十二万石ぐらい何のその恐るるところではなかったが、紊《みだ》りに事を荒立てて、正面切って押し入ったのでは、事件を隠蔽される懸念がありましたので、先ず事実の端緒《たんちょ》をつかむ迄はと、退屈男は影のように近よりながら、邸内の様子を窺いました。
 と――、御門前迄近よった時、ちかりと目に這入ったものはその武者窓囲《むしゃまどがこ》いにされている御門番詰所の中から、洩れるともなく洩れて来た灯りです。深夜の九ツ過ぎに御門番詰所の中から、なお灯りの見えていることは、未だに誰か外出している事を証明していましたので、何びとが門を預かっているか、そっと忍び寄りながら武者窓の隙から中をのぞいてみると、少しこれが不審でした。禄高十二万石の御門番ですから、屈強な御番士が門を預かっているのに不審はないが、余程退屈しているためにか、それとも目がない程に好きであったためにか、ひとりでしきりに将棋を差しているのです。それも何かむずかしい詰め手にでも打つかったものか、やや顔を青めながら、やけに腕を拱《こまぬ》いて考え込んでいる姿が目に映ったので、退屈男は急に何か素晴らしい奇計をでも思いついたもののごとく、にんめり微笑をもらすと、その武者窓下にぴたり身を平《ひら》みつけて、わざと声色をつくりながら、突然|陰《いん》にこもった声で呼びました。
「ゴモンバン――こりゃ、ゴモンバン――」
 屋敷が隅田川へのぞんだ位置であったとこへその呼び方が並大抵な呼び方ではなく、さながら河童ガ淵の河童が人を淵の中へ呼び入れる時に呼んだ声は、こんな呼び声ではなかったろうかと思われるような、気味わるく陰にこもった声で御門番とやったので、番士は少々ぞっとしたらしく、恐々《こわごわ》やって来て恐々窓から表をのぞくと、きょろきょろあたりを見廻しながら呟きました。
「――変だな、たしかに今気味のわるい声で呼びやがったがな。気のせいだったかな」
 のぞいて、姿のないのに、いぶかりながらまた将棋盤に向ったらしいのを見すますと、退屈男の同じ不気味な声色が深夜の空気をふるわして陰々と聞えました。
「ゴモンバン――こりゃ、ゴモンバン――」
「畜生ッ、いやな声でまた呼びやがったな。どこのやつだッ」
 恐々《こわごわ》さしのぞいて、恐々探しましたが、丁度格子窓の出ッ張りの下に平《ひら》みついているのですから、分る筈はないのです。不気味そうに帰っていったのを見すますと、追いかけながらまた退屈男の言う声が聞えました。
「――ゴモンバン、こりゃ、ゴモンバン」
 とうとう癇にさわったに違いない。
「ふざけた真似をしやがって、どこの河童だ。化かそうと思ったって化かされないぞ!」
 白《せりふ》は勇ましいが慄え声で、恐々《こわごわ》くぐりをあけながら、恐る恐る顔をのぞかしたところを、武道鍛錬の冴えをもってぎゅっとつかみ押えたのは言う迄もなく退屈男です。
「痛え! うぬか! 河童の真似をしやがったのはうぬかッ」
 叫ぼうとしてもがいた口へ、手もなく平手の蓋を当てがっておきながら、軽々と小脇へ抱え込んで、悠々と門番詰所へ上がってゆくと、ぱらりと覆面をはねのけて、これを見よと言わぬばかりに番士の目の前へさしつけたものは、吉原仲之町で道場荒しの赤谷伝九郎とその一党をひと睨みに疾走させた、あの、三日月の傷痕鮮やかな、蒼白秀爽の顔ばせでした。
「よッ、御貴殿は!」
「みな迄言わないでもいい。この傷痕で誰と分らば、素直に致さぬと諸羽流正眼崩しが物を言うぞ。当下屋敷に勤番中と聞いた霧島京弥殿が行方知れずになった由承わったゆえ、取調べに参ったのじゃ、知れる限りの事をありていに申せ」
「はっ、申します……、申します。その代りこのねじあげている手をおほどき下さりませ」
「これしきの事がそんなにも痛いか」
「骨迄が折れそうにござります……」
「はてさて大名と言う者は酔狂なお道楽があるものじゃな。御門番と言えば番士の中でも手だれ者を配置いたすべきが定《じょう》なのに、そのそちですらこの柔弱さは何としたことじゃ。ウフフ、十二万石を喰う米の虫よ喃《のう》。ほら、ではこの通り自由に致してつかわしたゆえ、なにもかもありていに申せ。事の起きたのはいつ頃じゃ」
「かれこれ四ツ頃でござりました、宵のうち急ぎの用がござりまして、出先からお帰りなされましたところへ、どこからか京弥どのに慌ただしいお使いのお文が参ったらしゅうござりました。それゆえ、取り急いですぐさまお出かけなさりますると、その折も手前が御門を預かっていたのでござりまするが、出かけるとすぐのように、じきあそこの門を出た往来先で、不意になにやら格闘をでも始めたような物騒がしい叫び声が上りましたゆえ、不審に存じまして見調べに参りましたら、七八人の黒い影が早駕籠らしいものを一挺取り囲みまして、逃げるように立去ったそのあとに、ほら――ごらん下さりませ。この脇差とこんな手紙が落ちていたのでござります。他人の親書を犯してはならぬと存じましたゆえ、中味は改めずにござりまするが、手紙の方の上書には京弥どのの宛名があり、これなる脇差がまた平生京弥どののお腰にしていらっしゃる品でござりますゆえ、それこれを思い合せまして、もしや何か身辺に変事でもが湧いたのではあるまいかと存じ、日頃京弥
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