はないのか!」
 だが、黙ってぶるぶると震えているばかりでした。
「唖《おし》か!」
「…………」
「唖かといってきいているんだ。耳が遠いのか!」
 いいえ、というように首をふると、不思議です。恐ろしいものをでも教えるように、黙って女がそこの小机の上を指さしました。
 歩みよってのぞいてみると、なぞのように紙片が一枚ぽつねんとのせてあるのです。
 しかも、それには容易ならぬ文字が見えました。
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「いまさらとやかく愚痴は申すまじく候《そうろう》。夫を恥ずかしめ候罪、思えばそらおそろしく、おわびのいたしようもこれなく候あいだ、せめてもの罪ほろぼしに、わたくしことも今より夫のおあとを追いまいらすべくそろ。万事はあの世へ参り、なき甚吾様にじきじきおわびいたすべく候まま、このうえわが罪の折檻《せっかん》は無用にござ候。あとあとのことはよろしく。取り急ぎ候ため、乱筆の儀はおんゆるしくだされたく候。――こよ」
[#ここで字下げ終わり]
 あて名はない。
 しかし、まさしく遺書です。
 わたくしことも今より夫のおあとを追いまいらすべく候としてあるのです。万事はあの世へ参り、じきじきにおわびいたすべく候ともしてあるのです。そのうえ、わが罪の折檻は無用にござ候という文字さえ見えました。
 どう考えても、妻女のおこよが、なんの罪か自分の罪を恐れ恥じて、みずからいのちをちぢめた書き置きとしか思えぬ紙片なのです。
「なるほど、そうか」
 ふりかえると、いまだに青ざめながらうち震えている女中に問いかけました。
「そなた、この書き置きにおどろいて、ものもいえなかったんだな。え? そうだろう。違うかい」
「そ、そ、そうでござります……」
「これを見ると、もうとうに死んでおるはずじゃが、この家のどこかに死体があるか」
「いいえ、うちには影も形も見えませぬ。この書き置きを残して、どこかへ家出なさいましたゆえ、びっくりしていたところなのでござります」
「そうか。死出の旅に家出したというか、出かけたはいつごろだ」
「ほんのいましがたでござります」
「出かけるところを見ておったか」
「いいえ、それが不思議でござります。こんなことになりましたら、もう申しあげてもさしつかえないでありましょうが、うちのだんなさまが、あの表で気味のわるい死に方をなさいましたゆえ、びっくりいたしまして、わたくし
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