右門捕物帖
毒を抱く女
佐々木味津三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)内濠《うちぼり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)白|綸子《りんず》

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     1

 その三十一番です。
 江戸城、内濠《うちぼり》の牛《うし》ガ淵《ふち》。――名からしてあんまり気味のいい名まえではない。半蔵門から左へつづいたあの一帯が、今もその名の伝わる牛ガ淵ですが、むかしはあれを隠し井の淵ともいって、むしろそのほうが人にも世間にも親しまれる通り名でした。濠の底にありかのわからぬ秘密の隠れ井戸が六つあって、これが絶えずこんこんと水を吹きあげているために、その名が起こったとは物知りの話――。
 しかし、どちらであるにしても、内濠とある以上は、たとい天下、波風一つ起こらぬ泰平のご時勢であったとて、濠は城の鎧兜《よろいかぶと》、このあたり一帯の警戒警備に怠りのあるはずはない。特にお濠方《ほりかた》という番士の備えがあって、この内濠だけが百二十人、十隊に分かれて日に三度ずつ、すなわち暮れ六つに一回、深夜に一回、夜あけに一回。騎馬、ぶっさき羽織、陣笠《じんがさ》姿で、四人ひと組みがくつわを並べながら見まわるしきたりでした。
 長つゆがようやく上がって、しっとりと深い霧の降りた朝――ちょうど見まわり当番に当たっていたのは三宅《みやけ》平七以下四人の若侍たちでした。禄《ろく》は少ないが、いわゆるお庭番と称された江戸幕府独特の密偵隊《みっていたい》同様、役目がなかなかに重大な役目であるから、いずれも心きいた者ばかり。その四人が定めどおり馬首をそろえて、半蔵門から隠し井の淵までさしかかってくると、
「よッ……!」
 三宅が不意に鋭く叫びながら、馬のたづなをぎゅっと引き締めました。
 上と下と濠《ほり》が二つあって、まんなかが水門。上ではない、その下のほうの濠に、いぶかしい品がぶかりぶかりと浮いているのです。
「なんじゃ」
「変なものだぞ」
 まだあけたばかりで薄暗いためによくはわからないが、赤いものが一つ、白いものが一つ。とにかく、穏やかでない品でした。
「おりろ。おりろ」
 ふたりが馬を捨てて、土手を下りながら長つゆのあとの水かさのました水面に近づいてよくよくみると、二つとも女の持ちものなのです。
 一つはなまめかしい紅扇子。
 いま一つは、これまたなまめかしい白|綸子《りんず》づくりの懐紙入れでした。
「水死人があるかもしれぬぞ」
「のう……!」
「いずれも懐中にさしている品ばかりじゃ。このようなところへ捨てる道理がない。入水《じゅすい》いたした者の懐中から抜けて浮きあがったものに相違ないぞ。土手に足跡でもないか」
 足跡はなかったが、この二つの品を見て、ただちに水死人と断じたのはさすがです。
「だれか一騎、すぐに屯所《とんしょ》へ飛べッ」
「心得た。手はずは?」
「厳秘第一、こっそりお組頭《くみがしら》に耳打ちしてな、足軽詰め所へ参らば水くぐりの達人がおるに相違ない。密々に旨を含めて、五、六人同道せい」
 パカパカとひづめの音を鳴らして、事変突発注進の一騎が、霧のかなたに消え去りました。
 同時に、一騎は半蔵御門へ。一騎は反対の竹橋御門へ。
 すべてがじつに機敏です。ご門詰めの番士に事の変を告げて、出入り差しとめ、秘密警戒の応急てはずを講ずるために、たちまち左右へ駆けだしました。
 見張りに残ったのは三宅平七ただひとり。この男、旗本の次男でまだ二十三になったばかりだが、諸事みな采配《さいはい》ふるって、なかなかおちついているのです。
 あちらへ漂い、こちらへ漂っているふた品を見ていると、どうも少し変なことがある。濠のまんなかごろのある一カ所から、間をおいてときどき思い出したようにぶくぶくとあわが浮きあがって、さながらそのあわの下に何か気味のわるい秘密でもあるかのように、ふたつの品がまた浮き漂いながらも、その一カ所のぐるりを離れないのでした。
「死骸《しがい》!」
 もしもそこに品物の持ち主の死骸が沈んでいるとするなら、怪談ものです。ふたつの品に何かのぶきみな怨念《おんねん》でもが残っていると思うより思いようがない……。
 いやなことには、まだ霧がなかなか晴れないばかりか、注進にいったものたちの帰りもおそいのです。
 待ち遠しい四半刻《しはんとき》でした。
 ぶきみな思いをしながら待ちあぐんでいたところへ、前後して三騎がはせ帰ってくると、城内屯所へいったのが馬上から呼び呼び伝えました。
「城外へ漏れてはならぬゆえ、そのことくれぐれも心して、たち騒がずに見張りせいとのお達しじゃ。お組頭はあとからいますぐ参られるぞ」
「足軽たちは?」
「いっしょに来るはずじゃ、それから……」
「だれかほかにご城内からお検分にお越しか」
「いいや。どういうおつもりか、お組頭、ちとふにおちぬことをされたわい。密々の早馬、すぐに八丁堀《はっちょうぼり》へ飛ばしてのう、だれか知らぬが火急に呼び招いた様子でござるぞ」
「ほほう。なるほど、さすがはお組頭じゃ。八丁堀なら、おおかた――」
 三宅の平七、なかなかに目がきくのです。いわずとしれた、むっつり右門であろう、というように、にったり笑ったところへ、足軽六、七人を従えて色めきたちつつはせつけたのは、お組頭畑野|蔵人《くらんど》でした。
「浮いているのはどの辺じゃ」
「あのまんなかでござります」
「いかさま、女物じゃな。だれぞひとり、はようあのふた品をこれへ、残りはすぐさま水へくぐらっしゃい」
 下知もろとも足軽たちが下帯一つになって、ひとりは命ぜられたとおりなぞのふた品を岸へ、あとの五人が水底めがけていっせいに飛び込もうとしたのを、
「いや、場所がある。まてまてッ」
 三宅が制して指さしました。
「今のあそこじゃ。ぶくぶくと水底からあわが吹いているあのあたりが怪しゅう思われるゆえ、まずあそこへくぐってみい」
 いずれも水練自慢とみえて、たくましやかな五体をおどらしながら、さっといっせいにもぐりました。
 しかし、まっさきにもぐって、まっさきにあわの下へいったのが、まっさきにまっさおな顔で浮き上がってくると、不思議なことをいったのです。
「いのちには替えられませぬ。あそこばかりは二度ともう――」
「たわけッ、いのちに替えられぬとは何をいうかッ。いいや、なんのためにお禄米《ろくまい》をいただいているのじゃ。もいちど行けいッ」
 しかりつけてくぐらせようとしたとぎ、ふたりめ、三人め、四人め、五人めと次々に浮かび上がると、いずれも同様に色を失いながらいうのでした。
「あそこばかりは二度ともう――」
「うぬらもかッ」
「でも、気味がわるくて近よれませぬ」
「死骸《しがい》か! 死骸が気味わるうてよりつけぬと申すかッ」
「いいえ、何もござりませぬ。死骸はおろか何一つ怪しいものは見えませぬのに、どうしたことか、あそこへ近よりますと身のうちが凍えるように冷たくなりまして、ぐいぐいと気味わるく引き入れられそうになりますゆえ、いかほどしかられましても、てまえどもの手には合いませぬ」
 組頭蔵人はじめ三宅平七たち五人の者は、目と目を見合わせながら、いずれもぞっと水をでも浴びせられたように、えり首をすぼめました。
 怪しいものがないというのに、ぶくぶくとあわがたっているはずはない。しかも、疑問のふた品が岸へ揚げられるまで、ぶきみなその一カ所の周囲ばかりを、底に引く糸でもあるかのごとく漂って離れなかったのが不思議です。
「そんなバカなはずはない。寄りつけないというはずがない。だれぞ勇を鼓して、いまいちどくぐる者はないか」
「…………」
「戦場と思うたら行けるはずじゃ。だれもおらぬか!」
 よくよく恐ろしかったものとみえて、裸男たちが声もなく顔見合わせているとき、
「えへへ。みなさんご苦労さま。ただいまはごていねいに早馬をいただいて、あいすみませんでしたね」
 姿より先に、かしましい声を飛ばせながら、大道せましと右に左にからだを振って、霧の中をこちらへ駆けつけてきたのは、
 あの男です。
 あとから静かにむっつりの名人……。

     2

「これはようこそ」
 組頭《くみがしら》蔵人《くらんど》、それを見るといんぎんでした。
「わざわざお呼びたてつかまつって恐縮にござる」
「いや、てまえこそ……」
 右門またもとよりいんぎんでした。
「ご城内のことは、われら町方同心ふぜいの差し出らるべきはずござりませぬが、特にてまえをお呼び出しは、あなたさまのお計らいで?」
「いや、かねがね伊豆守様が仰せでのう。手にあまる変事|出来《しゅったい》の節は、八丁堀に一人心きいた者がおるゆえ、忘れずに、とご諚《じょう》ござったゆえ、その一人とは貴殿よりほかにござるまいと、とりあえず早馬さしあげたのじゃ」
「なるほど、知恵伊豆様のおさし金でござりましたか、その変事とやらは?」
「女持ちのこのふた品じゃ、かような品が浮いているからには、昨夜のうちに入水《じゅすい》した女があったに相違ない。しかし、外濠《そとぼり》ならいざ知らず、このあたりは知ってのとおり、夜中の通行はご禁制の場所、ましてや、われわれお濠方が見まわっておるのに、その目をかすめて女が水死いたしたとすれば、容易ならぬ変事に相違あるまいと察したゆえ、騒ぎの大きくならぬうちに、尊公のお力を借りてと、火急にこっそりお招き申したのじゃ」
「なるほど。なまめかしい品々でござりまするな。浮いていた場所は?」
「ほら、あのまんなかを見られよ。ぶくぶくと、ときおりあわが吹いておるところがござろう。あのあたりひとところを離れずに、ゆらりゆらりと漂っていたのじゃ。それゆえ、不審はまずあの一カ所と、このとおり、水練に達者な者どもをさっそくかしこへくぐらせてみたが、奇態でござるわい。どうしたことやら、名うての泳ぎ達者どもでさえが、魔に吸いこまれるようなここちいたして、寄りつかれぬと申すのじゃ」
「なに、魔に吸いこまれるようなここちいたしますとのう。ほほう。あそこでござりまするな」
 じっと目を光らせて見ながめていたかと見るまに、
「アハハハ……もっともなお話でござります」
 からからとうち笑うと、来るそうそうからすでにもう、すばらしい右門流でした。地の底、水の底の秘密も、いながらにしてたなごころをさすごとく、こともなげになぞを解いて、ずばりといったものです。
「かしこへは寄りつかれぬも道理、おそらく隠し井戸の一つがござりまして、どうしたことか、たぶん吹き井戸の水道が切れましたために、かえって地の底へ濠水を吸い込んでおるに相違ござりませぬよ。あのあわを吹いておるのがなによりの証拠、底知れぬ穴へ水がしみ入っているゆえ、ぶくぶくとあわだつのでござります。アハハハ……幽霊の正体見たり枯れ尾花とはまさにこのこと、これなる扇子と懐紙入れがあの一カ所から離れなかったのも、かしこの水がうずというほどのうずでないうずを巻いているため、水もろとも穴の底に引きつけられて、ぐるぐるあのまわりを漂っていたに相違ござりませぬ」
「いかさまのう。なぞが解ければ恐るるところはない。どこかほかのところに骸《むくろ》が沈んでいるはずじゃ。手を分けて残らず捜してみい」
 蔵人の下知とともに、水練自慢の足軽たちが、にわかに活気づいていっせいに飛び込もうとしたのを、
「いや、お待ちなされませい!」
 何思ったか名人が呼びとめると、上と下との濠の境の水門のあいているのをいぶかしげに見ながめていたが、ぶきみなくらいな右門流がだんだんと飛び出しました。
「あの水門は?」
「何がご不審じゃ?」
「いつもは締まっておるはず、どうしてあいておるのでござります?」
「なるほど、あれでござるか。長つゆで上の濠水が増したゆえ、土手を浸さぬようにとあけさせておいたのじゃ」
 聞くや同時です。莞爾《かんじ》としてうち笑《え》むと、名人が意外
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