よく慣らしたもんですね」
「お恥ずかしいことでござります。大の男を相手にわたくしひとりでは、とてもたくさんの悪人成敗はおぼつかないと存じまして、父がいつくしみおりましたこの秋田犬を、二十日《はつか》あまりもかかってひそかに慣らし込み、ようやくゆうべまでは首尾よう仕止めましたなれど、今宵《こよい》のこの危ういところ、ご助力くださりまして、田鶴は天にものぼるようなうれしさでいっぱいでござります……それにつけましても、クロを殺したことは……クロを殺しましたことは何より悲しゅうござります」
「お嘆き、ごもっともでござりましょう。そのかわり、このかわいそうなむくろをお殿さまにお目にかけて、それからこのわら人形でござります。これもいっしょにお見せ申したら、罪ないお父御《ててご》の閉門も解かれましょうし、お殿さまおみずから残った悪人ばらをご成敗あそばすでしょうから、お家もこれでめでたしとなりましょうよ。ここに涼んでおりまするふたりのご藩士は、あとから近所のつじ番所の者たちに引かして、こっそりお屋敷へ送り届けさせましょうからな。そなたは一刻も急がねばなりませぬ。はよう、犬と人形《ひとがた》をお持ち帰りになって、しかじかかくかくと申しあげ、クロの忠義をたてておやりなせえまし――伝あにい、早く手配しな。お嬢さまにはお駕籠《かご》を雇ってね。では、ごめんくだせえまし。八丁堀の右門はけっしてお家の秘密を口外するような男じゃござんせんからな。ご安心なさいませよ」
――すうと風にほつれた鬢《びん》を吹かして、秋虫をきききき帰っていった名人の姿のほどのよさ! ――。苦労をしたい。まったく江戸の女たちがこのゆかしく男らしい名人と恋に身を焼くほどもひと苦労したくなるのはあたりまえです。
そうして八丁堀へ帰りついたのは、朝朗らかな白々あけでした。と同時のように、それを待ちうけながら、にこにこして名人を迎えたのは、あのあば敬のだんなです。
「おかげさまで――」
「おてがらでござりましたか」
「どうやら、一味徒党五人ばかりを捕えましたわい。やっぱり、そなたの眼のとおりでござったよ。八丈島から抜けてきたやつらが小判ほしさに、さっきのあの浪人めの入れ知恵で、騒動につけ込み、にせ手口の荒かせぎしたのでござったわい。ときに、そちらのホシはどうでござった」
「それもおかげさまで、しかし他言のできぬてがらでござります。それゆえと申しては失礼でござりまするが、どうぞあなたの捕物《とりもの》はあなたおひとりのおてがらにご上申なされませ。お奉行さまもお喜びでござりましょうよ。てまえのてがらは口外もできぬてがらでござりまするが、いちどきにあなたさまともども、二つの騒動が納まりましたのでござりまするからな。――伝あにいよ、二日分ばかりゆっくり寝るかね」
「ちげえねえ。敬だんな、ごめんなせえよ。お奉行さまからおほめがあったら、クサヤの干物でもおごらなくちゃいけませんぜ。てッへへへ。出りゃがった。ね、ほら、朝日がのっかりとお出ましになったんですよ。なんとまあ朗らかな景色じゃごんせんかね」
こやつもきょうばかりは、あば敬だんなにたいそうもなくおせじがいいのです。――そこへうれしいたよりがぽっかりと訪れました。
「近藤右門様まいる。田鶴――」としてあるのです。
「はあてね。もうさっきのあのお嬢さまが、胸を焦がしたってわけじゃあるめえね」
「黙ってろ」
開いてみると、次のごとき一書でした。
「さきほどは三ツ又稲荷にてうれしきお計らい、お礼申しあげまいらせ候《そうろう》。さそくに屋敷へ帰り、おさしずどおり、殿さまに申しあげ候ところ、万々のことめでたく運び候まま、お喜びくだされたくこのご恩は、田鶴一生忘れまじく、またの日、お身親しくお目もじもかないえばと、夢のまにまにそのこと念じまいらせ候。取り急ぎあらあらかしこ――」
「てへへへ。うれしいね。え! ちょいと、夢のまにまに念じまいらせ候とは、陰にこもって思いが見えて、うれしいじゃござせんか。いいや、なになに、お奉行さまからは表だってのご賞美はなくとも、こういうやさしいところが、夜ごと日ごとにぽうっとなって念じてくれりゃ、ね、だんな、いっそありがてえくらいじゃござんせんか。え? いけませんかね」
だが、名人はにこりともしないで、なんの変哲もないというように、あごをもてあそんだままでした。――いい虫の音です。そのとき、いい秋虫の朝音が、チリチリと庭の茂みからきこえました。
底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2000年4月17日公開
2005年9月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(htt
前へ
次へ
全18ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング