かた、二三春のやつめ、ほれた男の江戸五郎が、嵐の三左衛門に人気をさらわれちまったんで、それがくやしさに水まきして歩いているにちげえねえんだ。三味線ひくやつだって、忍びの得手《えて》がねえとはかぎらねえよ。夜忍びするは男と決まったもんじゃねえからな」
「ちげえねえ。当節は江戸で、女の色忍びがはやるっていうからね、べらぼうめ、べっぴんのくせに、ふざけたまねしやがって、どうするか覚えてろ。江戸っ子のつらよごすにもほどがあるじゃねえか。じゃ、なんですかい、兄貴だとかいったあのさっきのこくのねえ野郎も、いっしょにしょっぴいてくるんですかい」
「あたりめえよ。おれゃ八丁堀でひと涼みしているから、あっちへつれてきな」
 がってんとばかり伝六は宙を飛んで、その場に駒形河岸を目ざしました。

     3

 待つこと半刻《はんとき》――。
 気楽な八丁堀のひとり住まいのお組屋敷で、すだれごしに流れはいる涼風をいっぱいにあびながら、例の右手をあごのあたりに散歩させつつ、ごろり横になってうつらうつらとしていると、
「だんな! だんな! いけねえ! いけねえ! もようが変わったんだ。もようが変わったんだ。ホシの様子が変わったんですよ」
 脳天のあたりからがんがんと声を出しながら、目色を変えて駆け帰ってきたのは、二三春をあげにいったあいきょう者です。
「やかましいな。どうしたんだい」
「これがやかましくいわずにおられますかい。べっぴんがね、二三春のやつがね――」
「逐電《ちくでん》したか!」
「したんだ、したんだ。ちっと遠すぎるところへ逃げたんですよ。冥土《めいど》へ飛んじまったんですよ」
「へへえね。罪を恥じて、首でもくくったのかい」
「ところが、おおちがいなんだ。殺されたんですよ。殺されたんですよ。どいつかに匕首《あいくち》でね、ぐさりとやられているんですよ」
「えッ――」
 おもわず名人もぎょッとしながら、がばとはねおきました。あっさりかたがつくかと思われたのに、がぜん事件は急転直下したからです。しかも、殺されているというのだ。下手人とにらんだ二三春がみずから死んだのではなくて、何者にか殺されているというのです。
「したくしろッ」
 さっそうとして、蝋色鞘《ろいろざや》をにぎりとると、飛ばしに飛ばせて早駕籠《はやかご》を乗りつけたところは、いうまでもなく駒形河岸の二三春の住まいでした。同時に、そのけはいを知って、おろおろしながら飛び出してきたのは、さっきのあの小さい男です。
「とんでもねえことになったんです。八丁堀へお伺いしたるすにやられたとみえて、けえってみると、むごいめに会っていたんです。たったひとりの妹なんだ、早いところお調べくだせえまし、いいえ、早いところ下手人をおつきとめくださいまし」
 すがりつかんばかりにしていったのを、名人は黙々としながらずいと奥へ通ると、まずなによりもというように、その現場へ押し入りました。とともに、さすがの名人もおもわず目をおおいました。凄惨《せいさん》というか、惨虐というか、畳一、二畳ほどは一面の血の海で、その血に染まっている相手がうら若い美貌《びぼう》のあだものだけに、むごたらしさもまた一倍だったからです。
 傷は、背中をぐさりとやられた突き傷が一カ所、凶器は匕首、手慣れの三味《しゃみ》にひと語りかたっているところをでも不意にうしろから襲われたらしく、二三春は撥《ばち》もろともに太棹《ふとざお》をしっかりとかかえたまま、前のめりにのめっているのでした。
「ね、どう見たってもよう替わりなんだ。殺されるって法はねえんです。このべっぴんが幽霊水の下手人っていうだんなの眼《がん》に不足をいうんじゃねえが、その下手人が殺されているっていうのは、いってえどうしたわけなんです。だれが見たって、こりゃ、いい心持ちで三味をひきひきうなっているところを、ぐさりとうしろからやられたものにちげえねえんだからね。現の証拠にゃ、うしろにその匕首がころがっているから、なにより確かなんだ」
「…………」
「ね、だんな、どうですかね。殺されるって法はねえんですよ。ええ、そうですとも! おまけに、くやしいほどのべっぴんなんだからね。どう考えたって、この世の中にべっぴんがただ殺されるって法はねえんですよ、どうですね。またあっしがかれこれしゃべっちゃうるせえですかね」
 しかし、名人はおしのように黙り込んだままでした。黙々としてこごみながら、じいっと双の目を光らして二三春の髪の道具を見調べました。くし、こうがい、共に栗木屋の座敷で見つけたあのかんざし同様、だきみょうがの紋が彫りきざんであるのです。しかし、かんざしはない。同じ紋どころの他の品が、くし、こうがい共にそろっているのに、かんざしばかりないところを見ると、先ほどびょうぶの裏すそから見つけ出したあのかんざしが、二三春の持ち物であることは確かです。確かとしたなら、二三春に対する幽霊水の下手人としての疑いは、ますます深まるばかりでした。だのに、その二三春がいまや容易ならんことにも人手にかかっているのです。――当然のごとくに、三つの疑惑がわき上がりました。
 幽霊水のほんとうの下手人はほかにあるのではないかという疑いがその一つ。
 その者が罪を二三春に着せるために、かんざしを盗み取って、びょうぶの裏に刺してきたのではないかという疑いがその二つ。
 それがあばかれそうになったので、罪をおおいかくさんために二三春を殺したのではないかという疑惑がその三つ。
「ちとこれはふた知恵三知恵、大出しにしなくちゃなるまいかな」
 つぶやきながら、しきりとあごをなでなで、しきりとあたりを見調べていたかと思われましたが、せつな!
「なんでえ! なんでえ! おどすにもほどがあらあ。ウッフフ、アッハハ。だから、べっぴんというやつあ、魔がさしていけねえんだ。のう、伝あにい!」
 とつぜん、名人が何を発見したか、爆発するように笑いだしたので、肝をつぶしたのは伝あにいです。
「びっくりするじゃありませんか。ど、ど、どうしたんです。また何か怨霊《おんりょう》でもが出ましたかい」
「出たとも、出たとも。すんでのところ、むっつりの右門も大恥かくところだったよ。こりゃなんだぜ、人手にかかったんじゃねえ、まさに二三春自身が自分で命をちぢめたんだぜ」
「冗、冗、冗談も休みやすみおっしゃいませよ。猿《えて》の手にしたっても、てめえの背中へドスを突き刺すような器用なまねはできねえんだ。ましてや、こんなかわいいべっぴんの手が、背中のまんなかに回るほど長かったら、首もろくろっ首のはずですよ」
「ところが、ご自身でお死にあそばしたんだから、なんともしようがねえじゃねえか。まあ、そのうしろの柱に結びつけてある品物をとっくり見ろよ」
 指さしたのは、二三春の死骸《しがい》のちょうどまうしろになっている柱の下のほうに、しっかり結わいつけてあるその名もなまめかしい江戸紫のしごきです。
「はあてね。七つ屋へこかしこんでも一両がところは物をいいそうな上等のちりめんだが、いってえこんなところに結わいつけて、なんのまじないですかね」
「それが手品の種よ。なんのまじないだか、種あかししてみたかったら、そこのしごきのひとねじねじれているところへ、おっこちているドスをさしてみな」
「はあてね、――よよっ。こりゃ妙な仕掛けだ。ぴったり、ドスがはまりますぜ」
「それがわかりゃ、死人に口はなくとも手品の種はとけるはずだよ。まず、われ思うにだ、どうして死なねばならなくなったかは二の次として、なかなか二三春べっぴんゆかしいじゃねえか。さすがは糸の音締めで名をとった江戸女だよ。しょせん死なねばならぬものなら、日ごろ自慢の渋いのどで、この世のなごりに思いのこもったゆかしい一節をでも語りながら、心の清く澄んだところで、身ぎれいに果てようと、われとわがうしろ背をその柱に結わいつけた匕首《あいくち》にぶすりとやったやつが、がっくり前へ三味線をかかえて身はのめる、その拍子にドスが抜けて下におちる、魂は飛んで極楽へといった寸法だと思うが、むっつり右門の眼は狂ったかね」
「ちげえねえ。暑気に会っても、知恵にかびのはえねえのは、さすがにおらがだんなだ。そういや、二三春の両手の手首に、麻なわででもくくったらしいくくりあとのあるのも不思議じゃござんせんかい」
「それよ。さすがにおめえも一の子分だけあって、あごの油の切れねえのは豪勢だ。なぞを解くすべてのかぎは、まさにその手首に見えるくくりあとだよ。こうなりゃ、もうおれの眼はすごいんだ。これだけのべっぴんが、ただ死ぬはずはねえ。何かいわくがあって江戸紫の命を断ったにちげえねえから、家捜しやってみな」
「ちくしょうッ、なんとも気に入ったことをおっしゃいましたね。こうなりゃおれの眼はすごいんだとは、またいかにもうれしくなるせりふじゃござんせんか。べらぼうめ。おいらの眼だっても、こうなりゃなかなかにすごくなるんだ。ほんとに、どうするか覚えてろ」
 捜しているうちに、はしなくも見つけ出したのは、そこの縁起だなの上になにごとか秘密を包みながら、子細ありげに置かれてあった変なものです。まことに変なものという以外いいようのないほども変なものです。
「ざまあみろ。ざまあみろ! あるんですよ。あるんですよ! ここに変なものがあるんですよ。あッ、いけねえ。だんな、だんな。血だ、血だ。血がしみ出ている紙包みですぜ」
「なに!」
 近よってのぞいてみると、いかさま、ふところ紙の一束の外にまで、べっとりと黒ずんだ血がにじみ出た、いぶかしい小さな包みがあるのです。しかも、それが不思議なものの前に、なぞのごとく置かれてあるのでした。江戸絵なのです。それもただの江戸絵ではない。若衆歌舞伎十二枚のうち、江戸屋江戸五郎|胡蝶《こちょう》物狂いの図と、彫り書きの見える一枚刷りの大にしき絵の前に、供え物のごとくに置かれてあるのです。
「あけてみろ」
 命令とともに、伝六がおそるおそるあけてみるやいなや、名人もろとも、あッと声をたてました。血のにじみ出ていたのも道理、中から出たのはまさしく人のなま指なのです。それも小指なのだ。あきらかに歯で食い切った男の小指なのです。
「なぞはこれだな。みせい、みせい」
 ぶきみもかまわずに取りあげて見調べていましたが、とたんに名人のさえまさった声が放たれました。
「まさしく、役者の指だ。つめの間をみろ。おしろいがしみ込んでいるじゃねえか。江戸五郎の一枚絵にこれを供えてあるたア、二三春も存外の知恵巧者だぜ。行く先ゃ奥山だ。奴凧《やっこだこ》のようになってついてきな」
 紙ごと小指を懐中すると、ひた急ぎに急いだ先は、真夏の真昼の焼きつける暑さもなんのそのと、今が人の盛りの奥山の、見せ物小屋が軒を並べたその一郭です。しかも、ずかずかとはいっていったところは、水芸若衆歌舞伎と大のぼりの見える江戸屋江戸五郎の小屋でした。
「ちょっと、ちょっと。こんな人けもねえような小屋に、なんの用があるんです。鬼娘じゃあるめえし、食い切った小指の詮議《せんぎ》なら、江戸五郎は見当ちげえじゃござんせんかい。いかに二三春がとち狂ったにしても、ほれてほれてほれぬいた男の小指を食いちぎるはずあねえですぜ」
「うるせえや。死人に口がありゃ、こんな苦労はしねえんだ。黙ってついてきな」
 どんどんはいっていくと、ちょうど幕のあいていたのをさいわい、土間の片すみからその鋭いまなこを送って、おりから水芸所作事に踊り舞っている江戸五郎の両手の先をじっと見調べました。しかし、あるのです。右にひるがえし、左に返す両手には、いずれも五本の指が満足にあるのです。
 と見るや、名人はどんどんまた引っ返していって、大坂下り若衆歌舞伎と大のぼりの上がった嵐三左衛門の小屋の中へ、かまわずに押し入りました。ここはまえと違って、いかさま、江戸のお盆人気をひとりで占めているらしく、わんさわんさの大入り繁盛です。しかも、舞台にきらびやかな大身の槍《やり》を擬しながら、槍六法を踏んでいたのは、まぎれもない座頭《
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