はそれっきりか」
「いえ、もう一つあとで気がついたことなんですが、どう考えてもふにおちないことがあるんですがね」
「なんじゃ」
「お葉さんがお使いに来たとき、井上のおだんなは夜勤に出かけてるすだとたしかにおっしゃったのに――」
「いたというのか!」
「ではないかと思うことがあるんですよ。というのは、ポンポンと妙な鼓の音が聞こえたんですがね」
「なにッ、鼓とな! ふふうむ! ちとおかしなことになってきたようだが、鼓の音と井上の金八と、なんぞかかり合いでもあると思うのか!」
「あるからこそ、どうもふにおちねえと思うんですがね。ああいう鼓は、なんというんだか、謡の鼓でもなし、三河《みかわ》万歳の鼓でもなし、どうもさる回しのたたくやつじゃないかと思うんですが、それをまたどうしたことなんだか、井上のおだんながひどくお堪能《たんのう》でね、今までもときおりちょくちょくと夜ふけになんぞおたたきになったんですよ。ところが、その同じ鼓の音が、あとで思い出して気がついたんですが、お使いをうけてあちらへ伺おうとするとき、たしかに井上のだんなのお屋敷で聞こえたんですよ。だから、どうもいない人がいるわけではなし、といって、あんな鼓をほかに鳴らす人はこの近所になしと、いろいろ考えてみて、あんまり気味がわるいのによけい震えていたんでごぜえます」
「ふふうんのう! まて! まて! どうやらこいつあ、いろはから考え直さなくちゃならねえぞ! するてえと――?」
あごをなでなで考えていましたが、やがてこのたびこそはほんとうにさえざえとした十八番の「伝六ッ」が、あいきょう者のとこに飛んでいきました。
「大将! 兄貴! おい、伝六ッ」
「フェ……?」
「とぼけた返事をすんな! おめえのことだから、しりぬけのへまをやっていても大澄ましに澄ましていることだろうが、たぶんまだ松平のお殿さまのほうは洗っちゃいめえな」
「たぶんとはなんですかい! いいかげん人をバカにしてもらいますまいよ」
「じゃ、もう洗ってきたか」
「いいえ、はばかりさま! 別段と洗うこともなし、けっこうまた洗う必要もねえんだから、洗いませんよ!」
「しようのねえ善人だなッ。だから、かわいさ余って仲たげえもしたくなるじゃねえかッ。不審は井上の金八が証拠に見せたあの祝儀袋だ。たしかに、ゆうべ野郎も御徒歩供《おかちとも》になってお屋敷に詰めていたかどうか、はええところ飛んでいって松平のお屋敷のほうを洗ってこいッ」
「…………」
「手数のかかる兄いだな。首をひねって何をぼんやりしているんだッ。いろはから出直して、もう一度とっくりと考え直してみなよ! 井上の金八|館《やかた》は、まるで化け物屋敷みてえじゃねえか! 貧乏長屋かと思や中は存外と金満家なんだ。だのに、あれほどの騒ぎがあって見舞い客がひとりもいねえんだ。しかも、あの夫婦をみろいッ。きのどくなほどぶ細工な年増《としま》女のご亭主にしちゃ、金八|奴《やっこ》、気味の悪いほど若すぎるじゃねえかッ。おまけに、おかしな鼓の隠し芸があるっていうんで、証拠呼ばわりをして突きつけたあの祝儀袋に、きっと何かふらちな細工がしてあるにちげえねえから、とっとと洗いにいってきな」
「なるほどね。いろはだけじゃわからねえが、ちりぬるをわかまで考えてみりゃ、いかさまちっとくせえや! うなぎを食いはぐれてあぶら切れがしていやがったんで、野郎にたぶらかされたんだ。よくもだましゃがったな! どうするか覚えてろッ。地獄でまた会いますぜ!」
「まてッ、まてッ」
「えッ?」
「きょうは特別だ。急がなくちゃならんから、早駕籠で行ってきな」
「ちぇッ。たまらねえことになりやがったな! ざまあみろい! 井上の金八! おうい! 駕籠屋! 駕籠屋! 早駕籠はどこかにいねえか!」
やっこだこのようにそでをふくらまして飛び出したあいきょう者を見送りながら、
「公卿《くげ》公! 公卿公!」
のどかそうに庭先で、しきりに投げなわのけいこをしていた善光寺辰を呼び招くと、にこやかに笑《え》みつつ、右門流の命令を与えました。
「子どもは日が暮れてからひとりで遊ぶもんじゃねえ。おめえは今から大急ぎで両国までいってきな!」
「かなわねえな。造りは細かくても、気は大まかですよ。両国へ行くはいいが、何を洗ってくるんです※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
「知れたこっちゃねえか! さっき見てきたさるしばいを洗ってくるんだ。ゆうべの九ツ前後に、きっとあの一座のさるの中で異状のあったやつがいるはずだから、抜からずにかぎ出してきな!」
飛ばしておくと、
「仙市さん――」
静かなること林のごとし――いや、むしろそれは風流といいたいくらいのものでした。
「あんたはなかなか凝っていらっしゃる。さっき流しもとで拝見したぐあいではたいへん
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