うほう、命令どおり意を伝えたものか、ころころと駆け帰ってまいりましたものでしたから、意気に、ガラガラ、まめまめしいのと、三人三様の涼しい影を大川土手にひきながら、主従足をそろえて目と鼻の先の蔵前渡しをただちに目ざしました。
3
夜はこのときようやく初更に近く、宮戸あたり墨田の川は、牽牛《けんぎゅう》織女お二柱の恋星が、一年一度のむつごとをことほぎまつるもののごとく、波面に散りはえる銀河の影を宿して、まさに涼味万金――。
けれども、ようやく目ざした蔵前へ行きついて、河童権のねぐらを捜し当ててみると、これが少し妙でした。出入り口はこうし戸のままであるのに、家の内はまっくらにあかりが消されて、人けもないもののごとくにひっそり閑と静まり返っていたものでしたから、あわて者の伝六がたちまちうろたえて、おかまいなく大声をあげました。
「ちくしょうッ、ひと足先にずらかりましたぜ! 早く眼をつけて、夜通しあとを追っかけましょうよ! 河童なんぞにあのべっぴんをあやからしちゃ、気がもめるじゃござんせんか」
「うるせえ! 声をたてるな!」
「でも、まごまごしてりゃ、遠くへ逐電しちまうじゃござんせんか!」
「あわてなくともいいんだよ。あそこの物干しざおにぶらさがっているしろものをよくみろ。源氏のみ旗が、しずくをたらしているじゃねえか。川へもぐってぬれたやつを、いましがた干したばかりにちげえねえんだッ」
まことにいつもながら名人の観察は一分のすきもない理詰めです。高飛びしたものであったら、あとへわざわざ下帯などを洗いすすいで宵干《よいぼ》ししておく酔狂者はないはずでしたので、ちゅうちょなく中へ押し入りました。
しかし、それと同時! ――はいっていった三人の鼻をプンと強く打ったものは、まさしく血のにおいです。
「よッ、異変があるな! 辰ッ。目ぢょうちんを光らしてみろッ」
いわれるまえに、お公卿さまがまっくらなへやの中を折り紙つきの逸品でじっと見透かしていたようでしたが、けたたましく言い叫びました。
「ちょッ。こりゃいけねえや。野郎め、のびちまっているようですぜ」
「女も、いっしょかッ」
「河童だけですよ」
「じゃ、早く火をつけろッ」
照らし出されたのを見ると同時に、名人、伝六のふたりは、したたかにぎょッとなりました。
なんたる奇怪!
なんたる凄惨《せいさん》!
――河童権は口からいっぱい、どろどろの黒血を吐きながら、すでに変死を遂げていたからです。それもちゃぶ台の上には飲みさしの一升どくりと大茶わんが置かれたままでしたので、むろんのことに最期を遂げたのはほんの一瞬まえに相違なく、ほかに一品も食べ物のないところから推定すると、変死の正体、毒死の種は、明々白々それなるとくりの中に仕掛けられてあることが一目|瞭然《りょうぜん》でしたから、事件の急転直下と新規ななぞの突発に、名人の目の烱々《けいけい》とさえまさったのは当然、伝六のうろたえて音をあげたのもこれまた当然でした。
「ちくしょうめ、なんだって気短におっ死にゃがったんでしょうね! ぞうさなくネタがあがるだろうと思っていたのに、これじゃまた、ちっとややこしくなったようじゃござんせんか!」
聞き流しながら、名人はへやのあちらこちらを烱々と見調べていましたが、――と、そのときふと目を射たものは、角あんどんの油やけした紙の表に、なまなましい血をもってべっとりと書かれてあった次のごとき文字です。
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「よくもオレにドクを盛りゃがったな。化けて出てやるからそう思え。江戸の小町ムスメは気をつけろ。みんな比丘尼《びくに》小町に食われちまうぞ」
[#ここで字下げ終わり]
断末魔の苦しみにあがきもがきながら指先で書きしたためたと見えて、血の色のかすれたところや、べっとりとにじみすぎたところや、判じにくい文字ばかりでしたが、つづり合わせてみると以上のごとき文句が書き残されてありましたので、不審から不審へつづいた事実に、動ぜざること泰山のごとき名人も、いささか凝然となりました。また、これが奇怪不審でなくてなんでありましょうぞ! 手間暇いらず、たわいなく剔抉《てっけつ》できるだろうと思われたのはほんのつかのま――がぜんここにいたって、くみしやすしと見えた事件は、二段三段、第四第五の奇々怪々な新しいなぞの幕に包まれてしまったからです。式部小町はどこへ行ったか? 何者が河童権に一服盛ったか? そのことだけですらもすこぶる捨ておきがたき不審であるのに、江戸の小町娘は気をつけろ、比丘尼小町にみな食われちまうぞと、特に書き残されたいぶかしい一句は、なかんずく不審のなかの不審だったからでした。しかも、何者が毒殺したか、式部小町はどこへ消えたか、それに対する物的証拠となるべき遺留品は皆無なの
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