にむさぼりながら、菜の花、げんげ、咲き乱れるのどかな春の日中の道を武蔵境《むさしざかい》にたどりついたときがちょうど午《ひる》の八ツ下がり――あれから街道をいよいよ青梅の宿に向かって、ようように目的の地へ行きついたのは、かれこれもう落日に間のないころでした。
 しかるに、行きつくとただちに右門の目ざし向かったところは、関東尼僧寺の総本山なる青梅院《おうめいん》です。禅宗|曹洞派《そうどうは》の流れをうけた男禁制の清浄このうえない尼僧道場で、当時ここに仏弟子《ぶつでし》となって勤行《ごんぎょう》観経《かんきん》怠りない尼僧たちは、無慮二百名にも及ぶと注せられたほどでしたが、それかあらぬか、広大なる堂宇|伽藍《がらん》は、いまし、迫った落日の赤々とした陽光に照りはえて、伽藍を囲む築地塀《ついじべい》は、尼僧の清さそのものを物語るかのごとくに白々と連なり、しかも、伽藍のあわいあわいにおい茂る春の木、初夏の木、常盤木《ときわぎ》は、まこと文字どおりの青葉ざかりでした。
 このようなところへ何しに、と思われましたが、しかし、院内へはいるかと思うとそうではないので、名人の微笑しいしい行き向かったところは、ちょうどその尼僧寺青梅院を一望のもとに見おろされる位置になっている院の裏の小高い丘でした。
 ここは、塀《へい》も築地塀《ついじべい》ではなく生けがきで、その生けがきのところに、裏の丘がほとんど肩をすれすれに並べ、もし、院の表へ道ならねど、とがめえられぬ人の世の恋を追う男があって、男禁制の聖禁を犯そうと心がけたら、必ずしも僧房に忍び入るのが困難ではなく、反対にまた院内の尼僧たちの中において、道ならねど、これもあるいは許しえられる人の世の春を追おうとするものがあったとしたら、また、必ずしも裏の丘に忍び出ることがあまり困難ではない天の与えた一つの情けが丘でした。
 名人は微笑しいしい、先にたってその情けの掛け橋とも思われる青草原の丘へ上っていくと、木立ちの影に身を潜めながら、じっと下の僧院内に目をそそぎました。
 と、見よ!
 おお、見よ!
 丘の上から見おろされる尼僧院内に、今ぞ展開されつつあるその情景のすばらしさ!
 ――まことなんたる清浄な、そしてまたさわやかな美観でありましたろう! まさに沈まんとする落日の赤々とした陽光を浴びて、青葉がくれ、葉がくれに、あちらこちらの僧院内の広やかな広場の庭を三々五々、一団一群、およそ七、八十名ばかりのいずれもすがすがしい尼美人たちが、夕べの観経《かんきん》の前のいっときを、気まま身ままに、いと悩みなく逍遙《しょうよう》していたのです。
 さるをあいきょう者の伝六が見て、なんじょう黙していられましょうぞ!
「ちぇッ、ね、だんな! ちょっと、だんなったらだんな!」
「うるせえな、何を目色変えるんだ」
「だって、今しみじみと思っているんですがね。男は尼さんになれねえもんでしょうかね」
「あきれたやつだな。でも、おまえは日本橋を出るとき、青葉見物なんぞごめんだといったじゃねえか」
「ありゃ江戸へ置いてきた伝六で、ここへ来た伝六は別口ですよ。ね! 男でも尼になれるっていうんなら、あっしゃもう今からでもここへ二、三年|逗留《とうりゅう》してえんですが、なんとか尼になれる法はござんすまいかね」
「もうしゃべるなッ」
 しかっておいて、じっとなお目を注いでいましたが、と――そのとき、はしなくも名人の目にはいったものは、たったひとりきり、人々の群れから離れて、深く物思わしげに悩み沈みながら、うちしおれているひときわ美しい尼美人でした。年のころは十七、八歳! そりたての御弟子頭《みでしがしら》のそのみずみずしさ!
 名人は黙然として、ややしばし目を注いでいましたが、そこのかきねに、人でも出はいりしたらしい枝の折れと、そのくずれがきした塀そとの丘の上に、あちらこちらと印せられている青草を踏みにじった足跡を発見すると、もうそれで用は済んだというように、不意といいました。
「じゃ、暗くなるまで、そこらの草むらの中で、ひと寝入りしようぜ」
 先にたってかっこうなくぼみを見つけると、いつもながらの閑日月、すでにもう夢の国の人でした。
 ――かかるうちにも、しだいに時はたって、ようやく押し迫ったものは、とっぷり暮れた群星ちりばめられたる星月夜です。そして、ほどなくひびいてきたものは、五ツを告げる尼僧院内の鐘の音でした。
「よしッ、もうそろそろ夜のお勤めが終わったころだな。伝六ッ、辰ッ、もうつまらねえことをしゃべるなよ」
 いいつつ、くぼみから身を起こすと、名人の忍び寄るように近づいていったところは、日の暮れまえに見ておいたあの生けがきのくずれのそばでした。そこの草の茂みの中に、なにを待とうとするのか、じっと息を殺して身を潜めたとき
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