えッ、えれえッ。なにをなさっても、だんなのやることにゃ、そつがねえや。あの丸帯をお静坊に贈るたあ気がつきませんでしたよ。このとおり、あっしゃうれし涙がわきました――」
 伝六にも右門のゆかしさがわかったとみえて、がらッ八はがらッ八であっても、こやつがまた存外の人情家でしたから、ほんとうに往来なかで、栃《とち》のようなのをぽろぽろとやっていましたが、右門はべつにほめられるほどがものでもないといったような面持ちで、さっさと八丁堀《はっちょうぼり》のほうへ引き揚げていきました。

     2

 と――、帰ろうとしたその道の途中で、はしなくも右門の第十一番てがらとなるべき事件の発端が、突如として勃発《ぼっぱつ》したのです。いや、道の途中でというよりも、正確にいえば伝六が生島屋の店先で、あのとき、右門にしかられるような不必要と見える名のりをあげたからこそ、事件が向こうから右門のふところに飛び込んできたんですが、かどを曲がった近道伝いに八丁堀のほうへ帰ろうとすると、あわただしく追いかけてきて呼ぶ声がうしろにありました。
「そこのだんなさま! おふたり連れのだんなさま!」
 振り返ってみると、呼び手は先ほど右門に丸帯を見せてくれた生島屋のあの店員でしたから、いぶかって待っていると、店の者は息せき切りながら追いついて、遠慮深げにきき尋ねました。
「先刻店先でこちらのかたがおっしゃいましたようでしたが、そちらのだんなさまは、八丁堀の右門様でござんすね」
「そうじゃよ」
「では、あの、うちの大だんなさまが、大至急で、ご内聞にちょっとお目にかかりたいと申してでござりますゆえ、ご足労ながらお立ち寄り願えないでござりましょうか」
「用は何でござる」
「詳しゅうは存じませぬが、いましがただんなさまがたが店先にお越しのさいちゅう、奥でなにやら妙なことが起きたそうでござります」
 いるさいちゅうに事が起きたといったものでしたから、事件のいかんを問わず聞きずてならじと思いまして、ただちに右門は伝六に目くばせしながら生島屋へ引きかえしてまいりました。
「どうぞ、こちらから――」
 言いつつ先にたって内玄関のほうへ案内しましたので、通されるままに上がっていくと、いかさま何か珍事が勃発したとみえまして、そこにうろうろしていたものは、生島屋の大だんな七郎兵衛《しちろうべえ》でありました。うち見たところまだ五十そこそこの年配でしたから、せがれの陽吉に跡めを譲って隠居するにはまだ少し早いくらいに思いましたが、今の場合はそんな不審の穿鑿《せんさく》よりも、事の何であるかが第一でしたので、一礼するとただちに事件の顛末《てんまつ》の聴取にかかりました。
「何ぞ出来《しゅったい》いたしたそうじゃが、どんなことでござる」
「あっ、ご苦労さまに存じます。あの、妙なことをしちくどく念押しするようでござりまするが、ほんとうに右門のだんなさまでござんしょうか」
 すると、奇妙なことには、七郎兵衛がまた、右門であるかどうか、改まって念押ししたものでしたから、いぶかしく思って尋ねました。
「先ほど、お店のかたも念を押されたようじゃが、もしてまえが右門でなかったならば、なんと召さる?」
「おふたりさまを前にして、変なことを申すようでござりまするが、もし右門のだんなさまでござりませなんだら、なまじ事を荒だててもどうかと存じますので、差し控えようかと思うているのでござります」
「すると、なんじゃな、右門なら事をまかしても安心じゃというのじゃな」
「へえい、ま、いってみればさようでござります」
「いや、なかなか味のありそうな話じゃ。いかにも拙者が右門でござるよ」
「あっ、さようでござりまするか。では、ちとご内聞に申し上げとうござりますので、そちらのかたをお人払いを願いとうござりまするが、いかがなものでござりましょう」
「だいじょうぶ、ご心配無用じゃ。これはてまえの一心同体のごとき配下じゃから、なんでも申されよ」
「さようでござりまするか。では申し上げまするが、実は今これなる座敷で、ふいっと軸が紛失いたしましてな」
「軸と申すと、書画のあの軸でござるか」
「へえい」
「品物は何でござる」
「雪舟の絹本でござりました」
「雪舟と申すとなかなか得がたい品じゃが、家宝ででもござったか」
「へえい。代々家に伝わりました、二幅とない逸品でござりますので、かくうろたえているしだいでござります」
「いつごろでござった」
「ほんのただいま、それもまだだんなさまがたがお買い物中のことでござります」
「聞き捨てならぬことじゃな。場所はどこでござった」
「その床の間に掛けてあったのでござりまする」
「でも、この床には現在なにやらめでたそうな新画が掛かっているではないか」
「いいえ、それが不思議の種なんでござりまするよ。実
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