したことです。第三はいつにない困惑の情を見せて、いくたびもふうっと大きなためいきをついたことでありました。
 それらのどれもこれもが、あの事件に当たってつねに推断の早きこと神のごとく、明知の俊敏透徹たること古今に無双というべきむっつり右門にしては珍しすぎることでしたから、いかにも不審といわなければなりませんが、しかしひるがえって、よくよくこれを右門とともにわれわれも考えてみるとき、かれがかくのごとくに思い悩むのは、一面また無理のないことというべきでした。
 なぜかならば、そこに材料として提供されているところのものは、あまりにも少なすぎたからです。各自が胸に手をおいて考え直してみてもわかることですが、ただひっかかりとなりうべきものは、それなる非業の凶刃に倒れた兄少年僧の断末魔のときに叫び残したことばのみがあるばかりでありました。くまにやられた、くまにやられた、というそのたったふたことがあるのみでした。しかも、そのくまなるものが人間の名まえのクマであるか、あるいはけだもののクマであるか、事実はいたずらなるなぞを残したままで、本人とともに遠く幽明境を異にしたあの世へいってしまっているんですから、これはいかにむっつり右門が神人に等しい無双の捕物《とりもの》名人であったにしても、死人をふたたび蘇生《そせい》さすべきすべでも知っているか、でなくば自身|冥土《めいど》まで聞きに行ってくる切支丹《きりしたん》伴天連《ばてれん》の秘法でも心得ていないかぎり、推断に苦しむのは当然なことというべきでありました。
 けれども、そういうとき右門には、忘れてならぬ最後の手段がまだ一つあるのです。こんなふうに考えのつかないときや、容易に推断の下せないときは、これまでもしばしばその手を用いましたからむろんご記憶のことと思いますが、ほかでもなくそれはあの碁盤に向かうことなので、だからかれはふと思いつくと、重そうに床の間から愛用のそれなる一式を持ち出して、端然と正座しながら、心気をその一石にこめるごとく、音もほがらかにピシリと石を打ちました。
 と――、まことに効果はてきめんとでもいうべきでしたか、一石打ちおろすやいなやに、突然にやにやと笑いだしながら、つぶやくようにいいました。
「なんでえい。とんでもねえだいじなことを忘れてるじゃねえか」
 それもたちまちいっさいの氷解がついたもののごとくに、とんだことを忘れているといったものでしたから、はらはらとしていた伝六のおどり上がって悦に入ったことはもちろんのことなので――、
「ちえッ、ありがてえッ。碁盤さまさまだ。じゃ、例のごとく駕籠《かご》ですね」
 飛び出しそうにすると、だが、右門の忘れていたというその忘れごとは、少し意外な方面でありました。
「違うよ、違うよ。さっきからどうも何かだいじな忘れ物をしているように思ったから、いっしょうけんめいああやって廊下を歩きながら考えていたんだが、よく考えてみりゃ、おら、おなかがへっているよ」
 人を食ったことに空腹だといったものでしたから、出鼻をくじかれて、伝六が当然のごとくに鳴りだしました。
「ちえッ、冗談も休み休みおっしゃいよ! ほんとうにあきれただんなだね。まじめくさって、おなかがすいてるたあなんのことです。だんなのおなかは、身の内じゃねえんですか!」
 しかし、右門はようように重大事件を思いついたというような顔つきで、至極きまじめにいいました。
「おこったってしかたがないよ、おれがすきたくてすくんじゃねえ、おなかのほうがかってに減ってくるんだからね。大急ぎでなにかこしらえておくれよ」
「知りませんよ。いくらかってにおなかのほうから減ってくるにしたって、他人のものならだが、お自分の身の内なんだからね。なにもそんなことわざわざ碁盤を持ち出してみなくっても、わかりそうなもんじゃござんせんか」
 伝六の雲行きがとりつくしまのないほどにも、ひどく険悪でしたものでしたから、苦笑しいしいお台所のほうへはいっていったようでしたが、まもなく興津鯛《おきつだい》のひと塩干しを見つけてくると、天下の名同心むっつり右門ともあろう者が、みずからそれを火に焼いて、ようよう一食にありついたというようにちゃぶ台へ向かいました。
 しかし、そのときふと気がついたのは、そこにちんまりとお行儀よくすわりながら、手あぶりの上へ両手をかざしていた少年僧のことです。ちらりと見ると、少年のむじゃきさに、しきりと空腹らしいけぶりを見せていたものでしたから、思いついて右門は声をかけました。
「そなたもまだでありましたか」
「はい。お相伴させていただければしあわせに存じます」
 活発にいうと、おくする色もなくちゃぶ台についたものでしたから、右門は当然のごとくにあり合わせの精進物だけをそちらへ分けてやりました。しかるに、少年僧は少しく奇怪でありました。いっこうそれらの精進物にはしをつけようとしないで、しきりと興津鯛のほうにむじゃきな色目を使いだしたものでしたから、なんじょう右門のまなこの光らないでいらるべき、普通の者ならたいてい見のがすほどのささいなことでしたが、早くも大きな不審がわきましたので、さりげなく尋ねました。
「そなた生臭をいただくとみえますな」
「はい、ときおり……」
「なに、ときおり? でも……? 仏に仕える者が、生臭なぞいただいたのでは仏罰が当たりましょう?」
「だけど、お師匠さまがときおりないしょで召し上がりますゆえ、そのお下がりをいただくのでござります」
 と、――はしなくもいったその一語を聞くやほとんど同時でありました。それまでは、どこからこの難事件に手をつけていくのか危ぶまれていましたが、がぜん捕物名人はらんらんとそのまなこを鋭く輝かさすと、伝六をしかるようにいいました。
「それみろ! きさまはおれが腹の減っていることを思い出したといったら、人間じゃねえような悪態をついたが、碁盤のききめはもうこのとおりてきめんだ。思い出したからこそ、こんなもっけもねえ手がかりがついたじゃねえか。さッ、大急ぎに行って、あの源空寺の住職をしょっぴいてこいッ」
「え※[#感嘆符疑問符、1−8−78] 不意にまた何をおっしゃるんですか。源空寺の和尚《おしょう》に何用があるんですかい」
「どじだな。きさまの耳はどっち向いてるんだ。うちのお師匠さまはときおりないしょで生臭を食うと、たった今、この黙山坊がはっきりといったじゃねえか。何宗であるにせよ、仏にかしずいている身で、生臭なんぞ用いるやつにろくなものはねえや、ひとっ走りいってしょっぴいてこい!」
「なるほどね。こうなりゃ腹の減るのも見捨てたものじゃねえや。じゃ、寺社|奉行《ぶぎょう》さまのほうへも渡りをつけてから行くんですね」
「そんなやかましい手続きはいらねえや。ちょっとお尋ねしたいことがあるからといって、じょうずにおびき出してこい!」
 がってんだとばかりにしりからげて走りだしたものでしたから、もうここまで道がひらけていけば、あとは、右門の国宝ともいうべき、鋭利|犀抜《さいばつ》なる手腕のさえを待つばかりとなりました。

     3

 かくして、待つことおよそ小半とき――。
 むろん、もう伝六もこういうことには相当場数を踏んでいるはずでしたから、まさかへまをするようなこともあるまいと思って安心しながら待っていると、だが、案外なことに、帰ってきたのはその伝六ひとりでした。
 しかし、ひとりではあったが、はいりざまに、珍しく今度ばかりはすこぶる景気のよい報告をもたらしました。
「ね、だんな、だんな! 下手人の野郎は、いよいよあの生臭坊主と決まりましたよ」
「だって、肝心の玉を連れてこないことにはしようがねえじゃないか」
「だから、あの坊主がくせえっていうんですよ。ね、あっしがお番所の者だといったら、やにわと逐電しちまいましたぜ」
「えッ、そりゃほんとうかい」
「ほんとうにもうそにも、だからこうやって、あっしひとりでけえったんじゃござんせんか」
「じゃ、なにか事件《あな》のことをにおわしたんだな」
「ところが、そいつがおおちげえなんですよ。どうやら、生臭坊主うたたねをしているようすだったからね、いきなり庫裡《くり》のほうへへえっていって、ちょっとお番所でききたいことがあるから、八丁堀まで来てくんなといったら、野郎むくりと起きざまに青くなって、そのままやにわとずらかってしまったんですよ」
「なるほどな、少しにおいがしてきたかな」
「においどころじゃねえんですよ。だから、久しぶりでひとつ、だんなの鼻をあかしてやろうと思ってね、近所の者にこっそり身がらを当たってみたら、なにをかくそう、あの生臭坊主がくまっていう名だそうですぜ」
「なに、くま! そりゃほんとうか!」
「ちゃんとこの耳でいま聞き出してきたばっかりだから、まちがいっこありませんよ。ちっと変な名なんですがね。永守《ながもり》熊仲《くまなか》っていうんだそうですぜ」
 事実としたら、八丁堀の者と聞いて、やにわに逐電した点といい、その名に熊《くま》という呼び文字があるぐあいといい、少なくも今の場合の最も有力な容疑者に思われだしたものでしたから、右門は立ち上がると同時に、ぎらりと腰の細身を抜き放ちました。いうまでもなく、もしそれなる永守熊仲が、僧形の身をも顧みず殺生《せっしょう》戒を犯したとしたら、その場に力をかして少年僧黙山のために、兄のかたきを報じてやろうと思いついたからです。
 まことに回を重ねることここに十回、今度こそはようように待たれたむっつり右門の太刀《たち》のさばきに接しられそうな形勢となりましたが、剣もまたその心をくんでか、細身二尺三寸の玉散る刃《やいば》は、ほのめく短檠《たんけい》の下に明皎々《めいこうこう》と銀蛇《ぎんだ》の光を放って、見るから人の生き血に飢えているもののごとき形相でありました。
 右門はなつかしむようにややしばしうち見守っていましたが、にんめりとぶきみに微笑しながら、ぱちりと鍔音《つばおと》もろとも鞘《さや》へ納めると、例のごとく伝六に早|駕籠《かご》を命じて、用意のできるや同時に、先を急ぐもののごとく少年僧黙山を促しながら、自分の駕籠に共乗りさせると、ただちに息づえをあげさせました。
 けれども、不審なのはその目ざした方角でありました。いま伝六が帰ってきての報告によれば、疑問の住持熊仲和尚は早くも風をくらって逐電したとはっきりいっているのに、お供を急がせた行き先は紛れもなくその源空寺でしたから、逃げ伸びたあとへなぞ行って何にするのだろうと思われましたが、しかし行きつくと同時に、すぐとそのなぞは判明いたしました。ほかでもなく、その逐電した行き先が、遠方へ高飛びしたか、それとも近所に潜伏しているかそれを点検に来たので、少年僧黙山を案内に立たせながら、そこに取り散らかされてあった身の回りの品を巨細《こさい》に調べると、路用の金すらも持たずに、ほとんど着のみ着のままで飛び出したことがまず第一に判明いたしましたから、早くも右門はその逐電先が遠方でないことを知って、なお入念に調べてみると、そのときはしなくも目についたのは長火ばちの向こうにころがっていたなまめかしい朱|羅宇《らう》です。本来、朱羅宇そのものが男ばかりの僧院には許しがたき不似合いな品であるところへ、よくよく見るとそれなるキセルの雁首《がんくび》のところには、さらになまめかしい三味線《しゃみせん》の古糸がくるくると巻きつけてあったものでしたから、すでに右門は、その逐電先までも見通しがついたごとくに、薄気味わるくにたりとほほえみをみせていましたが、と――つづいてよりいっそうの注意をひいたものは、さっきうたたねをしていたときに用いてでもいたらしいがんじょうなかぎのかかっている不審な木まくらでありました。およそ何がいぶかしいといっても、様子ありげに引き出しへじょうぶなかぎをかけている箱まくらなぞというものは、そうざらにあろうとは思えませんでしたので、容赦なく小柄《こづか》の先でこじあけてみると、果然中からは怪しき一本の手紙
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