るほど、十間とへだたないそこの木の枝に、黒い影がだらりと見えたのです。しかし、よくよく見ると、ほんのいましがたやったものか、まだ手や足をひくひくさせていたものでしたから、駕籠をとび出すと同時でした。
「だいじょうぶ! まだ息があるぞ! 足場にするから、駕籠をもってこい!」
寺駕籠のお陸尺《ろくしゃく》にも似合わないで、もう歯の根も合わずにがたがたと震えているお供の者をしかり飛ばしながら、急いで木の下へかけつけると、ようやくさげてきた寺駕籠をふみ台にして、ともかくも大急ぎに本人を地上へ抱きおろしました。当人はまだ二十三、四ぐらいの、どこかお店者《たなもの》らしい若者でしたが、遠目に見届けたときのとおり、おりよくもそのときが断末魔へいま一歩という危機一髪のときでしたが、まだ肢体《したい》にぬくもりがありましたので、そこはもうお手のもの、術によって急所に活を入れると、徐々に息をふき返しましたものでしたから、普通の者ならばただちにその場で、事の子細を問いただすのがありきたりの型ですが、そこがむっつり右門の少し人と違うところでありました。顔の形相こそ、今の苦しみのためにまだ青ざめていましたが、その他の風采《ふうさい》をうち見たところ、ひと目に実直なりちぎ者ということがわかったものでしたから、当人には何もいわずに、すぐと駕籠の者に命じました。
「どうせ八丁堀へ行く駕籠だ。おれの代わりに、この若者を乗せていけ」
息を吹き返しているとはいいじょう、ついいましがた地獄の二丁目か三丁目あたりまで行ってきた人間を乗っけていけというのでしたから、いかに仏と縁の深い寺駕籠の陸尺たちであっても、これはあまりぞっとしない命令のはずでしたが、しかしむっつり右門の名声は、かれらにいやな顔をさせる余地のないほど広大でありました。深夜の町を黙々として八丁堀まで送り届けましたので、くだんの若い者を座敷へ伴っていくと、そこでようやく事の子細を尋ねることになりましたが、けれどもその尋ね方がまたまことに右門流です。
「どうだ、まだ死にたいか」
そして、からからとうち笑ったものです。その尋ね方のよく人情の機微をうがって少しもむだ口をきかないあたりといい、ことばは簡単ながらなおよく言外に義侠心《ぎきょうしん》の強さをはらましているあたりといい、普通の場合の人間であっても、ぐっと骨身にこたえるところでしたから、
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