、お寺の娘と昔約束をしてな、忘れねえように彫っておいたのさって、こんなふうにおっしゃいましたぜ」
 事もなげに立証したものでしたから、右門はいよいよ事件の迷宮にはいったのを知って、まゆを強く一文字によせ、そのやや蒼白《そうはく》な面に沈吟の色を見せながら、雲霧の中に小さな玉を探ろうとするように、じっとくちびるを結んでいましたが、と、――ちょうどそのときでありました。突然、天井裏で、何かねこかいたちのようなものの、けたたましく走りまわる音があったと思われましたが、さっと一匹の黒ねこが、それも特別大きい黒ねこが、なにやら口にくわえて、梁《はり》を伝わりながら、おどり逃げるようにそこの庭先へ天井裏から飛び出してきたので、右門のまなこはのがさずに、口へくわえているその品物に鋭くそそがれました。見ると、それはなんたるいぶかしさでありましたろうぞ! ねずみでもあろうと思われたのに、意外や、一匹の頭も尾もあるりっぱなさかなだったのです。しかも、生ではなく焼いたさかなで、あまつさえおしょうゆらしいもののつゆしるがしたたっていたものでしたから、右門のまなこは、ここにみたびらんらんと輝きを呈しました。なにをいうにも、くわえ出してきた場所は天井裏です。それも、古いさかなならば格別ですが、今、食膳《しょくぜん》にでものせようとしていたらしくみえる、たべごろの焼きざかなでしたから、右門のまなこはらんらんと輝くと同時に、その口のあたりにはにたりと会心の笑《え》みが浮かんで見られましたが、突然、いんぎんに恒藤夫人へわびをいいました。
「いや、つまらないことを申し立てまして、いかい失礼をいたしました。さぞお腹だちでござりましたろうが、お奉行に上申いたすおりに、何かと手落ちがあっては役儀の面目が相立ちませぬによって、かくいま一度検視に参ったまででござるから、なにとぞ失礼の段はひらにお許しくださりまするように……。ついででござるが、ご主人権右衛門殿に不慮の災を与えた憎むべきつじうら売りの下手人は、さきほど同僚の者が板橋口でめしとりましてな。それなる者が自白いたしましたによって、よくそのことも仏に申しきけ、ねんごろにお弔いなさりませよ。では、伝六、きさまもちょっとお参りしておきな」
 いうと、死者に向かってしばし黙礼を与えていたようでしたが、そのままなにごともなかったような面持ちで、さっさと八丁堀へ引き揚げてしまいました。

     6

 さて、引き揚げてしまってからの右門が、そろそろとまたむっつり右門の右門たるところを遠慮なく発揮しだしましたので、毛抜きを取り出しながらあごひげの捜索を始めたのもその一つですが、それよりもっと変なことは、ときどきにやりとひとりで思い出し笑いをやりながら、
「もう来そうなものだな。まだかえらんのかな」
 そういっては、だれかを待ちでもするかのように、しきりとひとりごとをつぶやきつづけましたものでしたから、伝六がまた伝六の本来に返って、右門を右門とも思わぬ、粗略な言を無遠慮に弄《ろう》しはじめたのは当然なことでありました。
「ちえッ、うすっ気味がわるい! 思い出し笑いなんぞおよしなせえよ。どなたさまをお待ちかねか知らねえが、あっしにないしょでそんな隠し女をこしらえたりなんかすりゃ、だんなにおぼしめしのある江戸じゅうの女を狩りたててきて、娘|一揆《いっき》を起こさせますぜ」
 しかるに、右門は依然あごひげをまさぐりながら、にたりにたりとやっては、その日一日、まだ来ないか、まだ帰らんかをつぶやきつづけたのみならず、それが翌朝にまでも及びましたものでしたから、伝六がさらに右門をそまつにした言を弄しました。
「あきれちまうな、きのうくさやの干物で奈良づけをたべるまでは、とても調子のいいだんなでしたが、あれからこっち、また少し気が変のようじゃござんせんか。奈良づけの粕《かす》にまだ酔ってらっしゃるんですかい」
 ところが、お昼ちょっとまえでありました。ぶつぶつと言い通しだった伝六が、真に意外なる来訪者を取り次ぐことになりました。ほかでもなく、それは、きのう意気揚々と中仙道《なかせんどう》へ追っかけていったあのあばたの敬四郎なので、だから伝六は犬ころのように、玄関から座敷へ引きかえしてくると、そこにごろりと寝ころびながらまだ二日ごしにあごひげをまさぐっている右門へ、事重大とばかりに声をひそめてささやきました。
「ね、だんなだんな! なにか知らぬが、あばたの野郎がまっさおな顔つきで、目をまっかにしながら、しょんぼりとしてたずねてきましたぜ」
「そうか! やっといま来たか」
 すると、右門は、やっといま来たかといって、何を隠そう、きのうからの待ち人こそはその敬四郎であったことを裏書きしながら、自身玄関まで出迎えにいって、あまつさえ丁重に上座へ直すと、伝六が目をぱちくりするほどのいんぎんさをもって、大海のごとき虚心|坦懐《たんかい》な淡泊さを示しながら、笑い笑いいいました。
「さぞ暑かったでござりましょう。昨日来、拙者は心してご貴殿の帰来をお待ちうけしていたところでござりますから、お気安くおくつろぎくださるように――」
 導かれてきたときは、すっかり青ざめて、なにかまだおどおどしながら、警戒している節がみえましたが、右門の坦々《たんたん》たること清らかな水のごとき心の広さに、あれほど意地のくね曲がっていたあばたの敬四郎も、ぐんと胸を打たれたものか、かつてない神妙さをもって口を開きました。
「いや、おことば、いまさらのごとくてまえも恥じ入ってござる。貴殿にそう淡泊に出られると、てまえも大いに勇気づいてお願いができるしだいじゃが、どうでござろう。今度という今度は、ほとほとてまえも肝に銘じてござるから、今までの失礼暴言はさらりと水にお流しくだすって、てまえの命をお助けくださるわけにはいくまいかな。このとおり、手をついての願いでござるが……」
「もったいない。お手をあげくだされませ。もうじゅうぶんにてまえには、こうやってご貴殿のお越しなさることまでもわかってでござりますによって、どうぞもうそれ以上はおっしゃらずに――、中仙道はどこまでお越しでござったか存じませぬが、暑い中を、ひどいめにお会いでござりましたな」
「そう申さるるところをみると、では破牢罪人の行く先、ご貴殿にはもうわかってでござるか!」
「さようにござります。中仙道へ参ろうと、東海道へ参ろうと、ことによったら唐天竺《からてんじく》までお捜しなすっても、ちょっとあいつめを見つけること困難でござりましょうよ」
「さようか、ありがたい! では、敬四郎一期のお願いじゃ。なにとぞ、お力をお貸しくださらぬか。貴殿のことだからもうご存じでござろうが、あいつめをてまえが逃がすと、切腹ものでござるからな」
「ええ、ようわかってでござります。ひょっとしたら、へびといっしょに蛇《じゃ》が飛び出すかもしれませぬから、どうぞ今からごいっしょにお越しくだされませ」
 いうと、いよいよ右門の右門たるところをお目にかけましょうといわんばかりに、莞爾《かんじ》とうち笑《え》みながら立ち上がったようでしたが、不意に伝六へ意外なものの用意を命じました。
「どこか、ご近所のお組屋敷に槍《やり》をお持ちのかたがあるだろうから、急いで一本借りてこい!」
「えッ? 槍……? 槍というと、あの人を突く槍ですかい」
「あたりめえだ。槍に幾色もはねえはずじゃねえか、なるべく長いやつがよいぞ」
 めんくらいながら駆けだしていって、伝六がどこで見つけたものか長槍を借り出してきたものでしたから、右門はそれを高々とかつがせると、意表をつかれて目をぱちくりしている敬四郎に、ごくさばさばとしながらいいました。
「さ、参りましょうよ。おひろいではちっとまだ暑うござるが、小者に槍をかつがせておひざもとの町中を歩くのも、にわか大名のようで近ごろおつな道中でござりますからな。ゆっくりと楽しみ楽しみ参りまするかな」
 そして、みずから先にたちながら、行き向かったところは、きのうことさら安心させるようなことばを残したままで引き揚げたあの道灌山裏の恒藤権右衛門宅でした。
 むろん、敬四郎も伝六も鼻をつままれたような面持ちでしたが、それよりぎょっとなったのは恒藤夫人で、おそるべき右門がみたび案内も請わずに、ぬうとまた訪れたばかりでなく、そこには長いやつを一本伝六にかつがせていたものでしたから、青ざおと青ざめて、震えるくちびるに虚勢を張っているもののごとく、とがめだていたしました。
「白昼許しもなく女こどもばかりの住まいに長物持参で押しかけ、なにごとにござりまするか!」
「いや、どらねこ退治に参ってな」
 しかし、右門は相手にもせずに、にやにやとうち笑みながら、伝六からくだんの長槍をうけとると、さッと石突きをふるって毛鞘《けざや》をはねとばしたと見えたが、えい! とばかり気合いを放つと、意外や、そこの天井めがけて、ぶすりとそのどきどきととぎすまされた九尺柄の穂先を突きさしました。しかも、そのへやの天井一カ所ばかりではなく、次々と疾風の早さをもって、残らずのへやの天井を同じく長槍の穂先を突き刺してまわったと見えましたが、突然、真に突然、意外な人の姓名を大音声《だいおんじょう》で天井めがけながら呼びました。
「さ! 恒藤権右衛門、降りてこぬと、右門の槍先がこのとおり見舞っていくぞ!」
 伝六のおどろいたことはもちろんでしたが、それよりも妻女の青ざめたことはいっそうのもので、へたへたとそこにうずくまってしまったのをみると、右門はさらに勢い鋭く天井を突き刺してまわりながら、ふたたび大音声で叫びました。
「さ! 権右衛門! 男らしく正体を現わさぬか! 降りてこぬと、ほんとうに突き刺すぞ!」
 すると、まことに意外でありました。右門のその慧眼《けいがん》を裏書きして、天井裏から答える声がありました。
「恐れ入りました。いかにも正体は現わしまするによって、どうぞ気味のわるい穂先だけはもうお控えくださいまし」
 つづいて、みしみしという音とともに、押し入れの中の出入り口を伝わって、果然そこに姿を見せたものは、二日の天井裏|籠城《ろうじょう》で、ほこりとすすによごれ染まっている死んだはずの恒藤権右衛門でしたから、右門は会心そうな笑《え》みをみせていましたが、しかし不平そうなのはあばたの敬四郎で、ややなじるがごとくにいいました。
「拙者の尋ねるものは、恒藤某なぞではござらぬよ。破牢罪人の源内でござるよ」
 すると、右門が莞爾《かんじ》とばかりうち笑みながらいいました。
「その源内とやら申す破牢罪人は、こやつが殺して、おのれの身代わりとなし、もうきのう土の下へうずめてしまいましたよ」
「なに※[#感嘆符疑問符、1−8−78] 殺した※[#感嘆符疑問符、1−8−78] 殺した※[#感嘆符疑問符、1−8−78] なぜ、てまえのたいせつな罪人をかってに殺しおったか、さ! 子細を申せ! 申さぬか!」
 あまりな意外のために、つい本性が出たものか、あばたの敬四郎が権右衛門に飛びかかって、その首筋を締めあげながら、いまにも悪い癖の痛め吟味を始めようとしたものでしたから、右門はあわててさえぎると、痛いところを一本刺していいました。
「いや、お待ちめされ! 拷問ばかりが吟味の手ではござらぬ。物には順序と道理があるはずじゃから、理詰めに調べたてれば、実を吐かぬというはずはござらぬ。てまえが代わって吟味つかまつろう。――さ、権右衛門、上には目のある者も、慈悲を持つ者もあるゆえ、ありていに申すがよいぞ。何がゆえに、なんじは源内を一昨夜かようにむごたらしき死に落とし、おのれの死骸《しがい》のごとくによそおって、人目をたぶらかそうといたしおった。このうえ白を黒と申しても、八丁堀にむっつり右門といわるる拙者の目が光っているかぎり、偽りは申させぬぞ!」
 敬四郎ならば一言も自白しまいとするかのように見えた恒藤権右衛門も、右門の慈悲あるらしい様子とことばに隠すことの愚を知ったものか、神妙に恐れ入って尋ねました。
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