」
「そら――、なんとかいいましたっけな。よくお寺のちょうちんなんかに染めてあるじゃござんせんか」
「寺のちょうちん……? じゃ、卍《まんじ》じゃねえか!」
「そうそう、その卍が、立て札の文句のおしまいに、たった一つちょっぴりと書いてあったんですよ」
事実としたら、その符丁こそは、先刻ご官医|玄庵《げんあん》先生から耳に入れた、あの破牢罪人の右乳の下にあったといういぶかしき卍のいれずみと一致すべきものでしたから、右門の眼の烱々《けいけい》と火を発したことはいうまでもないことで――。
「すばらしいねた[#「ねた」に傍点]だ! やっぱり、天道正直者を見捨てずというやつだよ。ひとっ走り行って引きぬいてこい!」
「じゃ、何かそいつが糸を引いているんですかい!」
「右門の知恵は、できあいの安物じゃねえよ!」
ずばりと小気味のいい折り紙をつけたものでしたから、いま泣いたからすはたちまち笑顔《えがお》になって、その早いこと早いこと、からだじゅう足になったかと思われるようなはやさで、駆けだしたかと見えましたが、まもなく帰ってくると、
「さ! これがその立て札だ! こんなものがねた[#「ねた」に傍点]になるなら、早いところあばたの野郎のかたきとっておくんなせえよ!」
いいざま、こわきにしていた立て札をぐいと右門の目の前にさしつけましたものでしたから、右門も胸をおどらしながら目をそそぎました。見ると、それには次のような文言が書かれてありました。
[#ここから1字下げ]
「――諸兄よ。恒藤権右衛門《つねとうごんえもん》はみごとわれら天誅《てんちゅう》を加えたれば、意を安んじて可なり――卍」
[#ここで字下げ終わり]
文言はなんの変哲もなさそうに見える簡潔なものでしたが、これを読んだ読み手がただの読み手ではなかったものでしたから、瞬時も待たずに、鋭い声が右門の口から飛んだので――。
「さ、伝六! 例のとおり駕籠《かご》だ! 駕籠だ!」
「えッ? だって、恒藤権右衛門が殺されたことはわかっていますが、どこの恒藤権右衛門だか、居どころはわからねえじゃござんせんか」
「だから、おめえは少し正直すぎるんだよ。日本橋へ立て札を掲げるほどの人殺しがあって、お番所へ殺された身内の者から訴えが来ていねえはずはねえんだ。訴状箱ひっくり返してみりゃ、どこの権右衛門だかすぐとわからあ」
「なるほど、それにちげえねえ。そういわれてみりゃ、きょうはまたいっぺんもお番所へ顔を出さねえや。じゃ、お待ちなせえよ、四丁肩で勇ましいところをひっぱってめえりますからね」
まをおかずに、そこへ替え肩づきのたくましいところを二丁ひっぱって帰りましたので、ただちに右門は息づえをあげさせると、まず第一着手に数寄屋橋《すきやばし》お番所へ駕籠先を向けさせました。
4
行ってみると、果然、訴状箱の中には、恒藤権右衛門とこそ明記はしてありませんでしたが、朝ほど子どもを連れた女が、夫の討たれた旨を訴えに来たことがちゃんとご記録帳にのせられてありました。幸運なことには、破牢事件の騒ぎのために、まだだれもご検視にすらついていないことがわかりましたものでしたから、道灌山裏《どうかんやまうら》としるされてあったその居どころをたよりに、右門主従は一路駕籠を飛ばしました。
今でこそ道灌山かいわいは市内のうちになっておりますが、当時はむろんわびしい武蔵《むさし》ガ原《はら》で、旗本、小大名のお茶寮が三、四軒、ぽつりぽつりと森の中に見えるばかりといったような江戸郊外でしたから、訴えのごとき殺傷事件のあった家はただちにわかりました。何を職業としていたものか、一見|分限《ぶげん》者らしい別邸構えが、ちょっと右門に不審をいだかせましたが、事の急はそれなる家が立て札に指名されてある災難者であるかどうかが先でしたから、ずいと中へ通ると、出迎えた妻女に向かって、おもむろに問いを発しました。
「けさほどお訴えに来られたかたは、そなたでござったか」
「はっ……では、あの、お番所のおかたさまにござりまするか」
「さよう、近藤右門と申す八丁堀同心でござる」
「まあ、あなたさまが右門様でござりましたか、よいおかたのお越しを願えまして、仏となった者もしあわせにござりましょう」
「では、もちろんそなたが恒藤権右衛門どののご妻女でござるな」
「はっ……このとおり、もう今年六歳になるかわいい者までなした仲にござります」
夫を討たれた者の妻女としては、ことばの応対なぞがややおちつきすぎていると思われましたが、しかし、それはおそらく、恒藤権右衛門とその姓名の示すとおり、士籍にある者の妻ゆえのおちつきであろうと思われましたので、念のために右門は尋ねました。
「どうやら、由緒《ゆいしょ》あるらしいかたがたのように思われるが
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