と、伝六が目をぱちくりするほどのいんぎんさをもって、大海のごとき虚心|坦懐《たんかい》な淡泊さを示しながら、笑い笑いいいました。
「さぞ暑かったでござりましょう。昨日来、拙者は心してご貴殿の帰来をお待ちうけしていたところでござりますから、お気安くおくつろぎくださるように――」
 導かれてきたときは、すっかり青ざめて、なにかまだおどおどしながら、警戒している節がみえましたが、右門の坦々《たんたん》たること清らかな水のごとき心の広さに、あれほど意地のくね曲がっていたあばたの敬四郎も、ぐんと胸を打たれたものか、かつてない神妙さをもって口を開きました。
「いや、おことば、いまさらのごとくてまえも恥じ入ってござる。貴殿にそう淡泊に出られると、てまえも大いに勇気づいてお願いができるしだいじゃが、どうでござろう。今度という今度は、ほとほとてまえも肝に銘じてござるから、今までの失礼暴言はさらりと水にお流しくだすって、てまえの命をお助けくださるわけにはいくまいかな。このとおり、手をついての願いでござるが……」
「もったいない。お手をあげくだされませ。もうじゅうぶんにてまえには、こうやってご貴殿のお越しなさることまでもわかってでござりますによって、どうぞもうそれ以上はおっしゃらずに――、中仙道はどこまでお越しでござったか存じませぬが、暑い中を、ひどいめにお会いでござりましたな」
「そう申さるるところをみると、では破牢罪人の行く先、ご貴殿にはもうわかってでござるか!」
「さようにござります。中仙道へ参ろうと、東海道へ参ろうと、ことによったら唐天竺《からてんじく》までお捜しなすっても、ちょっとあいつめを見つけること困難でござりましょうよ」
「さようか、ありがたい! では、敬四郎一期のお願いじゃ。なにとぞ、お力をお貸しくださらぬか。貴殿のことだからもうご存じでござろうが、あいつめをてまえが逃がすと、切腹ものでござるからな」
「ええ、ようわかってでござります。ひょっとしたら、へびといっしょに蛇《じゃ》が飛び出すかもしれませぬから、どうぞ今からごいっしょにお越しくだされませ」
 いうと、いよいよ右門の右門たるところをお目にかけましょうといわんばかりに、莞爾《かんじ》とうち笑《え》みながら立ち上がったようでしたが、不意に伝六へ意外なものの用意を命じました。
「どこか、ご近所のお組屋敷に槍《やり》を
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