、お寺の娘と昔約束をしてな、忘れねえように彫っておいたのさって、こんなふうにおっしゃいましたぜ」
 事もなげに立証したものでしたから、右門はいよいよ事件の迷宮にはいったのを知って、まゆを強く一文字によせ、そのやや蒼白《そうはく》な面に沈吟の色を見せながら、雲霧の中に小さな玉を探ろうとするように、じっとくちびるを結んでいましたが、と、――ちょうどそのときでありました。突然、天井裏で、何かねこかいたちのようなものの、けたたましく走りまわる音があったと思われましたが、さっと一匹の黒ねこが、それも特別大きい黒ねこが、なにやら口にくわえて、梁《はり》を伝わりながら、おどり逃げるようにそこの庭先へ天井裏から飛び出してきたので、右門のまなこはのがさずに、口へくわえているその品物に鋭くそそがれました。見ると、それはなんたるいぶかしさでありましたろうぞ! ねずみでもあろうと思われたのに、意外や、一匹の頭も尾もあるりっぱなさかなだったのです。しかも、生ではなく焼いたさかなで、あまつさえおしょうゆらしいもののつゆしるがしたたっていたものでしたから、右門のまなこは、ここにみたびらんらんと輝きを呈しました。なにをいうにも、くわえ出してきた場所は天井裏です。それも、古いさかなならば格別ですが、今、食膳《しょくぜん》にでものせようとしていたらしくみえる、たべごろの焼きざかなでしたから、右門のまなこはらんらんと輝くと同時に、その口のあたりにはにたりと会心の笑《え》みが浮かんで見られましたが、突然、いんぎんに恒藤夫人へわびをいいました。
「いや、つまらないことを申し立てまして、いかい失礼をいたしました。さぞお腹だちでござりましたろうが、お奉行に上申いたすおりに、何かと手落ちがあっては役儀の面目が相立ちませぬによって、かくいま一度検視に参ったまででござるから、なにとぞ失礼の段はひらにお許しくださりまするように……。ついででござるが、ご主人権右衛門殿に不慮の災を与えた憎むべきつじうら売りの下手人は、さきほど同僚の者が板橋口でめしとりましてな。それなる者が自白いたしましたによって、よくそのことも仏に申しきけ、ねんごろにお弔いなさりませよ。では、伝六、きさまもちょっとお参りしておきな」
 いうと、死者に向かってしばし黙礼を与えていたようでしたが、そのままなにごともなかったような面持ちで、さっさと八丁堀へ引き
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