ちっと太りすぎていると思いましたが、するてえと、なんですね、あれをぶった切った野郎は、どこかであの仏どもの水にはまったことを知っていて、あんなまねしたんですね」
「あたりめえさ。しかも、あの下手人はすばらしいわざ物の持ち主で、おまけに左ききだぜ」
「え? 左きき……なるほどね。そういわれれゃ、二つとも左胴ばかりをぶった切っていたこと今あっしも思い当たりやしたが、大きにそれにちげえねえや。剣術のことはよくあっしゃ知らねえが、生きている相手ならともかく、手向かいもなんにもしねえ死人の胴を、なにもわざわざ左から切るこたあねえからね。しかし、それにしても、あの門前のおかしな張り紙は、いったいなんのおまじないですかい」
「それがおれの目の節穴じゃねえといったいわれだよ。おめえもあばたの先生もいっこう気がつかねえような様子だったが、あの墓の五、六間先に、子細ありげな前髪立ての若衆がひとりしゃがんでいたんだ。どうもそいつのおれたちを見張っている眼《がん》の配りが、とても心配顔でただごとじゃねえと思ったからね。ひょっとすると、なにかこの事件《あな》にひっかかりがあるかもしれねえなとにらみがついたから、ちょっと右門流の細工をしたまでさ」
「ありがてえッ、そうと聞きゃ、もうこっちのものだ。じゃ、前祝いに駕籠《かご》をおごろうじゃござんせんか。この暑いのに、右門のだんなともあろうおかたを汗びたしにさせたといっちゃ、あっしが女の子たちに合わす顔がござんせんからね」
 現金なところもあるがあいきょうのあるやつで、伝六がかってな理屈をつけながらつじ駕籠を雇ってまいりましたので、右門も苦笑しながらうちのりました。もちろん、行き先はわき道もせずに八丁堀へ――。

     2

 ついたときにとっぷりと日が暮れて、八丁堀あたり下町かいわいはちょうど今が夕涼みの出さかりどき、もちろん右門はあの張り紙をくだんの若衆が発見するかぎりにおいては、まちがいなくこよいにも訪れてくることと確信を持っていたものでしたから、その夕涼みにも出かけないで、いまかいまかと待ちわびていましたが、しかしどうしたことか、予期の訪問者はなかなか姿を見せなかったのです。五つ、四つと、やがてもう夜なか近くになろうとしても、いっこうその人らしい足音すらも聞こえなかったものでしたから、信ずることも早いが疑うことも早い伝六が、不安の声を発しました。
「あばたのだんなだって、あれが商売なんだからね。ひょっとすると、とんびに油揚げをさらわれてしまったかもしれませんぜ」
 けれども、にらんだ者はわが右門です。さるはよし木から落ちることがあっても、右門の目に狂いのあろうわけはないはずでしたから、いってるうちにことりと表の辺にあたって、足音を止めたけはいがありました。と同時に、立ち上がった者は伝六でなく、右門です。珍しや、自身出迎えに表まで出ていったと思われましたが、まもなく伴ってきた者は、今にしてはじめて知らるる十七、八のぬれ羽色に輝く前髪をふっさりとたくわえた一人のお小姓でありました。おそらくは、ご大身の大々名にでも近侍している者とおぼしく、あでやかというよりも、むしろさっそうとしたりりしさを備えていましたが、そのやや青まって見える悩みありげな面ざしは、右門のいったとおりに、なにごとか深い子細のあり余りげなふぜいでありました。それゆえか、導かれて座についてからも、しばしがほどは黙々として面をうち伏せながら、なお思いに悩みつづけているらしい様子でありましたから、右門がまずいったのです。
「てまえも八丁堀で少しは人に知られた者でござる。わざわざあのような張り紙をしておいてまいったからには、いかようなことなりとご貴殿の力になってしんぜようから、まず事の子細を先に承りましょうではござらぬか」
「はっ……」
 小さくいうにはいいましたが、よほどの考慮を費やすべき問題ででもあるのか、いっこうにあとをつづけようとしなかったものでしたから、右門がずばりと一本くぎをさしました。
「では、なんでござるな、てまえに信が置けぬと申すのでござるな」
「いいえ、め、めっそうもござりませぬ。あの張り紙をはからずも目に入れたとき、そなたさまのことはとうにてまえも聞き及んでござりましたので、これはよいおかたの味方を得たものだと存じまして、ふたときあまりも、とつおいつ思案ののちに、ようやっとこのように夜ふけのことをも存じながら、おじゃまさせていただきましてござりまするが、さていざとなると、やっぱりどうも……」
「打ちあけぬほうがよいと申さるるか」
「いいえ、それをどうしたものかと、今もなおかように思い迷ってでござります……」
 いうと、またしばしの間、悩み深げにうちしおれていたものでしたから、右門が少ししびれをきらして、急所へさらに一本くぎを打ちました。
「では、てまえのほうからお尋ね申すが、もしやそなたは刀の詮議《せんぎ》をなさってではござらぬか」
 と――、ずぼしに的中したかのごとく、おもわずぎくりとなった様子でしたが、そのほしを見ぬかれてはと思ったものか、ようやくにして相手が口を開きました。
「慧眼《けいがん》、いまさらのごとくに感服つかまつりました。それまでも、わたくし腹中をお見通しでござりましたら、このうえ隠すは無益にござりますので、いかにも胸中の秘密お明かしいたしまするが、けっしてお他言はござりませぬでしょうな」
「かくのとおりにござる」
 莞爾《かんじ》として笑《え》みをのせると、かちりと強く金打《きんちょう》して見せましたものでしたから、たのもしげな右門のその誓約にようやくお小姓は愁眉《しゅうび》を開いて、事の子細を打ち明けました。
「何を隠しましょう、わたくしは越前松平家のお小姓にて、石川|杉弥《すぎや》と申す者にござりまするが、殿からお預かり中のけっして世に出してはならぬたいせつな一腰を、お目がねどおり何者にか盗みとられ、殿よりもきついおしかりをこうむりましたので、爾来《じらい》六日ばかりというもの、かく面やつれのいたすほど心魂を砕いて詮議をいたしておりましたところ、はからずもきょう、あの寺の墓地で、新墓をあばいた者のあった由を承りましたから、もしやその下手人でもが死に胴だめしをしたのではなかろうかと存じ、なんぞの手がかりでもと、こっそり様子探りに出向いたところを、かくあなたさまに見つけられたのでござります」
 さもあろうと思っておりましたから、右門は石川杉弥と名のったそのお小姓の告白をうちうなずきながら聞いていましたが、しかし問題は盗みとられたというその刀です。けっして世に出してはならぬといったその刀です。何者の作だろうとしばらくうち案じていましたが、まもなく推定がつきましたものですから、右門はずばりとほしをさしていいました。
「いや、よく打ち明けくだされて、てまえも心うれしく存ずるが、おそらくその刀、村正《むらまさ》でござろうな」
 すると、同時に石川杉弥がぎょッとなりながら、人に聞かれてはならぬというように、すばやくあたりを見まわしました。……一見不思議な態度に思われまするが、しかし、実は少しもこれが不思議でないので、なぜかならば、当時のごとき徳川もまだお三代ごろのご時勢においては、最もこの村正の作刀が忌みきらわれた絶頂だったのです。なぜ、あれほどの名刀がそんなにも嫌忌《けんき》されたか、この話の中心ともなるべきものでございますから、簡単にその理由を説明しておきますが、いくつか説のあるうちで、今に最もよく喧伝《けんでん》されているものは、すなわち、あの村正の妖刀説《ようとうせつ》です。その説をなすものの言によると、本来刀を打つ要諦《ようてい》は、身を守るために鍛えるのが主であって、人を切ろうという鍛法は従であるのに、どうしたことか初代の千子院村正《せんじゅいんむらまさ》が切る一方の刀ばかりを打つので、とうとう師の正宗が涙を奮ってこれを破門したところ、今度は村正がそれを根にもって、では師匠正宗すらもしのぐほどな刀を鋳ようと、ひたすら切る一方の刀を打ったために、いつしか妖気と殺気がその作刀に乗りうつって、そのためこれを腰にする者はつい血を見たくなったり、人を切りたくなったりするというのが、いわゆるその妖刀説ですが、しかし、これは村正の刀があまりによく切れすぎるのと、その刀相に一抹《いちまつ》の妖気が見られるところから、いつだれがこしらえたともなくこしらえた伝説で、ほんとうの因縁いわれは、徳川の始祖、すなわち神君|家康《いえやす》が、ひどくこの千子院を忌みきらったからのことなのです。なぜ、それほどにきらったかというに、祖父|清康《きよやす》が天文四年尾州|守山《もりやま》の陣において、阿部弥七郎《あべやしちろう》なる者のために、この村正をもって袈裟《けさ》がけの一刀をうけ、弥七郎の帯びていた村正によって、清康の子|広忠《ひろただ》、すなわち家康の父がまた天文十四年に、その家臣の岩松|八弥《はちや》なる者に股《また》を刺され、本人の家康また関ガ原の陣において、これは別な村正でしたが、同様千子院作の槍《やり》のために指を突かれ、さらにその長子|岡崎三郎信康《おかざきさぶろうのぶやす》なる者が、父家康の怒りにあって自刃したとき、これを介錯《かいしゃく》した天方|山城守《やましろのかみ》の一刀がやはり村正の刀だったというところから、数代重なったこの不思議きわまる因縁に権現さまともいわれた家康がすっかりと縮み上がって、自今村正作の打ち物類は見つかりしだい取り捨てるべし、というご禁令をお納戸方《なんどがた》に向かって発したものでしたから、それがいつしか村正の嫌忌される原因となり、二代三代はもとよりのこと、四代五代の村正作でも、およそ村正と名のつく打ち物類はことごとく忌みきらわれるにいたったのです。
 しかも、それを嫌忌した者はただに徳川一族の者ばかりではなく、外様《とざま》又者の類までが、もしこの作を手に入れたときは、徳川への恐れと遠慮のために、その銘をすりつぶして佩用《はいよう》するといったような当時のご時勢でしたから、又者までもがそうであるのに、江戸へ親藩筋の松平家が宗家の忌みきらう村正を蔵するはふつごう中のふつごうなので、さればこそ、石川杉弥は刀を盗まれたといってもその銘は秘し、そして、そのなにものであるかを右門に言い当てられたとき、かくぎょッとなってあたりを見まわしたしだいでしたが、慧眼《けいがん》右門には杉弥のそのわずかな動作だけで、早くもいっさいのことが推定されましたから、ここちよげにうち笑《え》むと、力をつけるように杉弥へいいました。
「いや、ご懸念は無用でござる。そなたがなにゆえきょうが日まで、密々にそのような詮議《せんぎ》のご苦心をなさったか、なにゆえまた今のようにかくお驚きなさったか、すべてはてまえにもとっくりと判明してござるから、いったん耳に入れた以上は、拙者も近藤右門、こよいからさっそくそなたのおてつだいをしようではござらぬか」
「すりゃ、あの、わたくしめにお助勢くださるとおっしゃるのでござりまするか!」
「さよう、二日《ふつか》とたたないうちに、きっとそなたのご心配は取りのけてしんぜましょうよ」
「ありがとうござります、ありがとうござります。あなたさまのお助力をうければもう千人力、やっぱりご相談に上がってよいことをいたしました」
 しばしがほどは面すらもあげえないで、ただ感激にうちふるえていましたが、ようやくあでやかさをましてきたその美しい顔に感謝の色をみせると、石川杉弥は水色|絖《ぬめ》の小姓ばかまに波を打たせながら、こっそり深夜の表へ消え去っていきました。

     3

 かくて、いよいよむっつり右門の義によって奮いたった第七番てがらの端緒につくことになりましたが、第一にまずかれの目がけたところは江戸の剣術道場でありました。というのは、あの新墓の死に胴切りについて検分したところによると、その切り口のすばらしくあざやかなところから案ずるに、必ずやわざものは世に名をとった銘刀で、腕もま
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