た相当の達人だろうとめぼしがついていたものでしたから、それにはあの左ききという判定のあったのをさいわい、まず道場出入りの剣士について、それなる左ききの、あるいは左り胴の癖ある者をあげてみようと考えついたからのことでしたが、しかし、いざ捜そうという段になると、肝心の道場なるものがまたなかなかたいへんな数でありました。将軍家お指南番役たる柳生《やぎゅう》の道場を筆頭にして、およそ剣道指南と名のつく末流もぐりの類までも合算していったら、優に三十カ所以上の数でしたから、どうしておろそかな労力では洗いきれるものではなかったのですが、もとよりそれをいとう右門ではないので、その翌早朝伝六を従えると、まず第一番に木挽《こびき》町なる柳生の道場に出向きました。
当時はもちろんまだ但馬守宗矩公《たじまのかみむねのりこう》がご存生中で、おなじみの十兵衛三厳公《じゅうべえみつよしこう》は大和柾木坂《やまとまさきざか》のご陣屋にあり、そのご舎弟の宗冬公《むねふゆこう》が父但馬守とともに道場を預かって、出入りの門弟三千名と称せられたほどのご盛大でしたが、しかるにその門前へさしかかったところで、はしなくもぱったり
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