右門捕物帖
笛の秘密
佐々木味津三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)産土神《うぶすながみ》と

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)江戸三|社祭《じゃまつ》り

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(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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     1

 ――今回はその五番てがらです。
 事の起こりましたのは山王権現、俗に山王さんといわれているあのお祭りのさいちゅうでした。
 ご存じのごとく、山王さんのお祭りは、江戸三|社祭《じゃまつ》りと称せられている年中行事のうちの一つで、すなわち深川|八幡《はちまん》の八月十五日、神田明神の九月十五日、それから六月十五日のこの山王祭りを合わせて、今もなお三社祭りと称しておりますが、中でも山王権現は江戸っ子たちの産土神《うぶすながみ》ということになっていたものでしたから、いちばん評判でもあり、またいちばん力こぶも入れたお祭りでした。しかし、当時はまだ今の赤坂|溜池《ためいけ》ではないので、あそこへ移ったのは、この事件の起きたときより約二十年後の承応三年ですから、このときはまだもと山王、すなわち半蔵門外の貝塚《かいづか》に鎮座ましましていたのですが、時代は徳川お三代の名君家光公のご時世であり、島原以来の切支《きりし》丹《たん》宗徒《しゅうと》も、長いこと気にかかっていた豊臣《とよとみ》の残党も、すでにご紹介したごとく、わがむっつり右門によってほとんど根絶やしにされ、このうえは高砂《たかさご》のうら舟に帆をあげて、四海波おだやかな葵《あおい》の御代を無事泰平に送ればいいという世の中でしたから、その前景気のすばらしいことすばらしいこと、お祭り好きの江戸っ子たちはいずれも質を八において、威勢のいい兄哥《あにい》なぞは、そろいのちりめんゆかたをこしらえるために、まちがえて女房を七つ屋へもっていくという騒ぎ――。
 ところで当日の山車《だし》、屋台の中のおもだったものを点検すると、まず第一に四谷伝馬町は牛若と弁慶に烏万燈《からすまんどう》の引き物、麹町《こうじまち》十一丁目は例のごとく笠鉾《かさほこ》で、笠鉾の上には金無垢《きんむく》の烏帽子《えぼし》を着用いたしました女夫猿《めおとざる》をあしらい、赤坂今井町は山姥《やまうば》に坂田金時《さかたのきんとき》、芝|愛宕《あたご》下町は千羽|鶴《づる》に塩|汲《く》みの引き物、四谷大木戸は鹿島《かしま》明神の大鯰《おおなまず》で、弓町は大弓、鍛冶町《かじちょう》は大|太刀《たち》といったような取り合わせでしたが、それらが例年のごとく神輿《みこし》に従って朝の五つに地もとを繰り出し、麹町ご門から千代田のご城内へはいって、松原小路を竹橋のご門外へぬけ出ようとするところで、将軍家ご一統がお矢倉にてこれをご上覧あそばさるというならわしでした。
 だから、老中筆頭の知恵伊豆をはじめ幕閣諸老臣のこれに列座するのはもちろんのことで、一段下がったところには三百諸侯、それにつらなって旗本八万騎、それらの末座には今でいう警察官です。すなわち、南北両|奉行《ぶぎょう》所配下の与力同心たちがそれぞれ手下の小者どもを引き具して、万一の場合のご警固を申しあげるという順序でした。
 さいわいなことに、当日は返りの梅雨《つゆ》もまったく上がって、文字どおりの日本晴れでしたから、見物がまた出るわ出るわ――半蔵門外に密集したものがざっと二万人、竹橋ご門外は倍の四万人、それらが今と違ってみんな頭にちょんまげがあるんですから、同じまげでも国技館の三階から幕内|相撲《ずもう》の土俵入りを見おろすのとは少しばかりわけが違いますが、だから、なかにはまたおのぼりさんのいなか侍も交じっているので、足を踏んだとか踏まないとか、お国なまりをまる出しでたいへんな騒ぎです。
「うぬッ、きさまわスのあスを踏んだなッ、武スを武スとも思わない素町人、その分にはおかんぞッ」
 侍のほうではたといおのぼりさんでもとにかく二本差しなんだから、いつものときと同じようにおどし文句が通用すると心得ているのでしょう。しかし、きょうの江戸っ子は同じ江戸っ子でも少しばかり品が違っているので、その啖呵《たんか》がまた聞いていても溜飲《りゅういん》の下がるくらいなのです。
「なにいやがるんでえ。このでこぼこめがッ、おひざもとの産土《うぶすな》さまが年に一度のお祭りをするっていうんじゃねえか。村の鎮守さまたあわけが違うぞ。足を踏まれるぐれえのこたあ、あたりめえだ!」
 実際またそうなんで、ことに山王さまは将軍家お声がかりのお祭りなんだから、氏子どもの気の強いのはあたりまえなことですが、いってるところへ、ショッワッ、ショッワッ、ショッワッ――という声、不思議なことに、江戸の三社祭りのもみ声となると、必ずまたきまってワッショッワッショッとは聞こえないで、ショッワッ、ショッワッとさかさまに聞こえるから奇妙です。だから、もうこうなればお国なまりの二本差しも珍しいので、先になって、足を踏まれたぐらいは問題でないので。かくするうちにも、山王権現のおみこしは、総江戸八十八カ町の山車《だし》引き物、屋台を従えながら、しずしずと、いや初かつおのごとく威勢よく竹橋ご門外に向かって、お矢倉さきにさしかかってまいりました。
 将軍家光公はもちろんもう先刻からのおなりで、五枚重ね朱どんすのおしとねに、一匁いくらという高直《こうじき》のお身おからだをのせながら、右に御台《みだい》、左に簾中《れんちゅう》、下々ならばご本妻におめかけですが、それらを両手に花のごとくお控えさせにあいなり、うしろには老女、お局《つぼね》、お腰元たちの一統を従えさせられて、ことのほかの上きげんです。
 すると、これらの山車引き物の中で、四谷伝馬町の牛若と弁慶がちょうど将軍家ご座所前にさしかかったときでありました。将軍家のご上覧に供するというので、最初からこの牛若丸と弁慶の山車だけは人形でなくほんものの人間を使い、ご座所の前へさしかかったところで、それなる牛若と弁慶が五条の橋の会見を実演するという予定でしたから、ここを晴れの舞台と、弁慶は坊主頭に紅白ないまぜのねじはち巻きをいたし、ご存じの七つ道具を重たげに背負いまして、銀紙張りの薙刀《なぎなた》をこわきにかい込みながら、山車の欄干を五条橋に見たてて、息をころしころし忍びよると、髪は稚児輪《ちごわ》にまゆ墨も美しく、若衆姿のあでやかな牛若丸が、まばゆいばかりの美男ぶりで、しずしずと向こうから現われてまいりました。それがまた弁慶はとにかくとして、牛若にこしらえた者は四谷伝馬町で糸屋|業平《なりひら》といわれている大通りの若主人が扮《ふん》していたものでしたから、将軍家はそれほどでもありませんでしたが、御台さまをはじめお局《つぼね》腰元たちはことのほかその若衆ぶりが御感に入ったらしく、いっせいにためいきをついて目を細めながら、ざわざわとざわめきたちました。
 だから、牛若丸の大得意はもちろんのことで、日本中の美男子を背負って立ったごとく、しずしずと屋台に姿を見せると、腰なる用意の横笛を抜きとって、型のごとくにまず音調べをいたすべく、その息穴へやおらしめりを与えました。すると、ひとなめ牛若が息穴をなめたとたんです。笛てんかんというのもおかしいですが、生まれつきのてんかん持ちででもあったか、それとも人出にのぼせたものか、稚児輪《ちごわ》姿《すがた》の牛若丸が笛にしめりを与えると同時に、突然|苦悶《くもん》のさまを現わして、水あわを吹きながら、その場に悶絶《もんぜつ》いたしました。しかも、悶絶したままで、容易に起き上がるどころか、みるみるうちに顔色が土色に変じだしたものでしたから、まず武蔵坊《むさしぼう》弁慶が先にあわてだし、つづいて屋台のはじにさし控えていた町内の者があわてだすといったぐあいで、はからずも騒ぎが大きくなりました。
 だから、家光公がけげんな顔をあそばして、かたわらにさし控えていた松平伊豆守を顧みながら、不審そうに尋ねました。
「のう、伊豆、絵物語なぞによっても、牛若どのはもっと勇者のように予は心得ているが、あのように弱かったかのう。見れば、弁慶の顔を見ただけで卒倒いたしおったようじゃが、世が泰平になると、牛若どのにもにせ者が出るとみえるのう」
 牛若をにせ者ときめてしまったあたりは、なかなかに家光公もしゃれ者ですが、しかし、ここが松平伊豆守の偉物たるゆえんだったのです。なにかは知らぬが、この珍事容易ならぬできごとだなということを早くも見てとりましたから、それには答えないで、さっと立ち上がると、とっさにまず身をもって家光公をかばったもので、同時にことばを強めながら、せきたてるように腰元たちへ下知を与えました。
「なに者かためにするところあって、かような珍事をひきおこしたやも計られぬ。おのおのがたは上さまをご警固まいらせ、そうそうご城中へお引き揚げなさりませい!」
 命じ終わるととっさにまたかたわらをふり返って、お茶坊主をさしまねきながら、さらに知恵伊豆らしい下知を与えました。
「町方席に右門が参り合わせているはずじゃ。火急に呼んでまいれ」
 人物ならば掃くほどもその辺にころがっているのに、事件|勃発《ぼっぱつ》と知ってすぐに右門を呼び招こうとしたあたりなぞは、どう見てもうれしい話ですが、より以上にもっとうれしかったことは、命をうけて茶坊主が立とうとしたそのまえに、ちゃんともう当の本人であるむっつり右門がそこにさし控えていたことでありました。まことに、知恵伊豆とむっつり右門の腹芸は、いつの場合でもこのとおり胸のすくほどぴったりと呼吸が合っておりますが、いうまでもなく、それというのは、右門もはるか末座においてこの珍事をみとめ、早くもこいつ物騒だなとにらんだからのことで、だからわいわいとたち騒いでいる満座の者を押し分けて、倉皇《そうこう》としながら参向すると、一言もむだ口をきかないで、ただじいっとばかり伊豆守の顔を見守ったものです。
「おう、右門か。さすがはそちじゃ。場所がらといい、場合といい、深いたくらみがあって、わざわざかように人騒がせいたしたやもあいわからんぞ。はよう行けい!」
 同時に、伊豆守のせきたてるような命令があったものでしたから、ここにいよいよわれらがむっつり右門の捕物《とりもの》第五番てがらが、はからざるときに計らざることから、くしくも開始されることにあいなりました。

     2

 もちろん、牛若丸はあれっきり屋台の上に水あわを吹いたままで、町内の者をはじめ各山車山車の騒擾《そうじょう》はいうまでもないこと、物見高いやじうまが黒山のごとくそれをおっ取り巻いて、さながら現場は戦争騒ぎでありましたが、見るからにたのもしげなむっつり右門が自信ありげなおももちで、人波を押し分けながらさっそうとしてそこに現われてまいりましたものでしたから、何かは知らずに群集はかたずをのんで、たちまちあたりは水を打ったごとくにしいんと静まり返ってしまいました。それを早くも認めたものか、人波を押し分け押し分け右門のあとから駆けつけてきたものは、例のおしゃべり屋伝六で――
「おっ、ちょっとどいてくんな、おいらがだんなの右門様がお通りあそばすんじゃねえか、道をあけなってことよ」
 つまらないところで自慢をしなくともよいのに、よっぽど鼻が高かったものか、つい聞こえよがしにしゃべってしまったものでしたから、どっと周囲から一時にささやきとどよめきがあがりました。
「おっ、熊《くま》の字きいたかよ、きいたかよ。あれがいま八丁堀で評判のむっつり右門だとよ。なんぞまたでかものらしいぜ」
「大きにな、ただのてんかんにしちゃ、ちいっとご念がはいりすぎると思ったからな。それにしても、なんじゃねえか、うわさに聞いたよりかずっといい男じゃねえか」
「ほんとにそうね。あたし、もうお祭りなんかどうでもよくなったわ」
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